ましものを――つまり、草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答えて、一緒に消えてしまえばよかった――という歌をよんで、泣いたという話です。
この物語には男が断腸の歌をよんで泣いたという感情の附加があって、読者は突き放された思いをせずに済むのですが、然し、これも、モラルを超えたところにある話のひとつでありましょう。
この物語では、三年も口説いてやっと思いがかなったところでまんまと鬼にさらわれてしまうという対照の巧妙さや、暗夜の曠野《こうや》を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途《いちず》に走ろうとして返事すらできない――この美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合せる綾《あや》とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。
つまり、女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食わるというむごたらしさが生きるのだし、男と女の駈落のさまが美しくせまるものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であったり、男の情熱がいい加減なものであれば、このむごたらしさは有り得ません。又、草の葉の露をさしてあれは何と女がきくけれども男は返事のひますらもないという一挿話がなければ、この物語の値打の大半は消えるものと思われます。
つまり、ただモラルがない、ただ突き放す、ということだけで簡単にこの凄然《せいぜん》たる静かな美しさが生れるものではないでしょう。ただモラルがない、突き放すというだけならば、我々は鬼や悪玉をのさばらせて、いくつの物語でも簡単に書くことができます。そういうものではありません。
この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕《はら》んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。
この三つの物語には、どうにも、救いようがなく、慰めようがありません。鬼瓦を見て泣いている大名に、あなたの奥さんばかりじゃないのだからと言って慰めても石を空中に浮かそうとしているように空《むな》しい努力にすぎないでしょうし、又、皆さんの奥さんが美人であるにしても、そのためにこの狂言が理解できないという性質のものでもありません。
それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身《うつしみ》は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一《ゆいいつ》の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或《ある》いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。
底本:「堕落論」新潮文庫、新潮社
2000(平成12)年6月1日発行
2004(平成16)年4月20日5刷
初出:「現代文學 第4巻第6号」
1941(昭和16)年8月号
入力:うてな
校正:noriko saito
2006年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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