を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
 その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁《し》みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。
 もう一つ、違った例を引きましょう。
 これは「狂言」のひとつですが、大名が太郎冠者《たろうかじゃ》を供につれて寺|詣《もう》でを致します。突然大名が寺の屋根の鬼瓦《おにがわら》を見て泣きだしてしまうので、太郎冠者がその次第を訊《たず》ねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房に良く似ているので、見れば見るほど悲しい、と言って、ただ、泣くのです。
 まったく、ただ、これだけの話なのです。四六版の本で五、六行しかなくて、「狂言」の中でも最も短いものの一つでしょう。
 これは童話ではありません。いったい狂言というものは真面目《まじめ》な劇の中間にはさむ息ぬきの茶番のようなもので、観衆をワッと笑わせ気分を新らたにさせればそれでいいような役割のものではありますが、この狂言を見てワッと笑ってすませるか、どうか。尤《もっと》も、こんな尻切《しりき》れトンボのような狂言を実際舞台でやれるかどうかは知りませんが、決して無邪気に笑うことはできないでしょう。
 この狂言にもモラル――或《ある》いはモラルに相応する笑いの意味の設定がありません。お寺詣でに来て鬼瓦を見て女房を思いだして泣きだす、という、なるほど確かに滑稽《こっけい》で、一応笑わざるを得ませんが、同時に、いきなり、突き放されずにもいられません。
 私は笑いながら、どうしても可笑《おか》しくなるじゃないか、いったい、どうすればいいのだ……という気持になり、鬼瓦を見て泣くというこの事実が、突き放されたあとの心の全《すべ》てのものを攫《さら》いとって、平凡だの当然だのというものを超躍した驚くべき厳しさで襲いかかってくることに、いわば観念の眼を閉じるような気持になるのでした。逃げるにも、逃げようがありません。それは、私達がそれに気付いたときには、どうしても組みしかれずにいられない性
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