ではない。しかし、胸がおさまらないから、
「私は歩いて行きます。どうぞ、お先に」
「無理ですよ。三里もあるそうですから」
「いいえ、歩きます」
「こまるなア。じゃア、ボクも一しょに。キミたち、先に行ってくれたまえ。ボクたち、何か乗物さがして、追いつくから。歌手は真打だ。バンドが先にやってるうちに、静々とのりこむからね」
「よせやい。ほかに乗物はありやしないよ」
「モシ、モシ。発車いたします」
「畜生め。ウーム」
仕方がない。バンドの五人はヤツ子と田沼を残してバスにのらざるを得なかった。
「乗物をさがして、早く来てくれよ、な」
「ああ、大丈夫」
こういう次第で、バンドと歌手は別々になってしまった。歌手の到着が一時間もおくれたのである。
「ワガママったら、ありやしないよ。美人を鼻にかけやがって」
「悪く云うなよ。三里もある道歩くなんて意地はるとこ可愛いよなア」
「歌手なんか、いらねえや。バンドの腕を見せてやるんだ」
「そうはいかねえらしいぜ」
とバンドの一人が楽屋の黒板を指さした。楽屋というのが小学校の教室だ。その黒板に例のポスターが一枚はってある。右下にマリリンモンローのような美女がタバコをかざして煙を吹いてる。左には薄い桃色の裸体美人。そして中央に「馬草村文化祭」美貌の女子大学生歌手。あこがれの明星。微風と恋、恍惚のメロディ。ああ、青春の文化祭。東都一流の大学バンド出演。
「なア。オレたちのことなんか、サシミのツマほどしか書いてないぜ。馬草村のアンチャンは目が高いやア」
「アドルムのみてえよなア」
一同ヤケを起して大声で喋っている。これを小耳にはさんだ信二がシメタと思った。
もともと信二は自分のお金モウケを考えて文化祭にのりだしたわけではない。行きがかりでこうなったが、村の若い衆にうまい汁を吸わせてみても、自分は別に面白くもない。
しかし、大学生のバンドをよぼうじゃないかと主張しはじめた時からなんとなく狙いはあった。田舎娘を相手にしても一向に心は浮かない。なんとかして意気な都会娘とネンゴロな交際を持ちたいものだと常日頃考えていたのであるが、文化祭を機会にそんな風になりたいものだという狙いはなんとなくあった。そこで女優、ダンサー、歌手、ストリッパー、いろいろギンミしたあげく、自分の好みにも合い、また見込みのありそうなのもアルバイトの女学生芸能家だと見当をつけた。そこで契約に上京した時もバンドよりも女学生歌手のフェースの方に主眼をおいて念入りにギンミしたのである。
その小森ヤツ子がワガママを起しバンドとケンカしておくれてくるというのだから、これはうまいぞと思った。どこがうまいのか信二にもハッキリしないが、何事によらずチャンスというものは何もないところには起らない。何かがあれば、チャンスの見込みもあるから、したがって、うまいのである。モーローとチャンスの訪れを待つことは彼の大いに好むところで、半日や一日は物の数ではない。彼は文化祭の会場である小学校の門前で、モーローと小森ヤツ子の到着を待った。ヤツ子と田沼は一バスおくれて到着した。信二は進みでて、
「どうも遠いところ御苦労さまです。皆さんお待ちかねですから、田沼さんは至急会場へいらして下さい。それから小森さんにはファンの方が昼食にお招きしたいとお待ちになっておりますが」
「ずいぶんおくれちゃいましたけど、昼食の時間あるでしょうか」
「ありますとも。では田沼さん。会場はあちらですから」
有無を云わさずヤツ子をさらわれた田沼はいぶかしそうな顔をして仕方なしに会場へ向った。信二はヤツ子を自宅へ案内した。
「私まだ歌手になって算えるほどしかステージに立たないのですけど、ファンの方って、どんな方?」
「イエ。ボクなんです」
「あら、まア」
「招待をうけていただいて光栄の至りです」
自分でコーヒーをわかしたりして、まめまめしくもてなした。
「あら、大変。もう会場へ行かなくちゃア」
「そうですね。ですが田舎のことですから、ちょッと唄って下さるだけで結構なんですよ。あとはバンドと田沼さんがやって下さるでしょうから」
「そうも行きませんわ」
「唄のあとで、またお目にかかれたらと思うんですが」
「ええ」
ヤツ子は流行歌を五ツ唄って退いた。そのまま姿を現さない。少憩してバンドと田沼は再び力演に及んだが、雨天体操場に満員鈴ナリの若い衆、
「アマッコだせえ。アマ、どうしたア」
ついに足ふみならして騒ぎだす。そこで五助が進みでて、
「エエ、会場の皆さまに申上げます。小森ヤツ子嬢は急病のため残念ながら再演は不能になりました。小森嬢に代りまして、さらに田沼先生が優美なメロディを唄って下さいます。静粛、々々」
こうして馬草村文化祭音楽と歌謡の部は無事に終ったのである。五助が楽屋へ現れて、
「どうも皆さん御苦労さまです。御夕食でも差上げたいのですが、バスがなくなりますのでね。ごらんのようにテンヤワンヤで、売上げがどうなったやら、会計も行方不明で、今日は精算ができませんので、とりあえず、帰りのバスと汽車賃、バス代二十五円の汽車賃二百七十円、六人分で千七百七十円也。どうぞお納め下さい。謝礼はさっそく精算の上お送りいたします。オヤ、もう最終のバスの時間だ。これに乗りおくれると、大変。急ぎましょう」
「お茶がのみたいね」
「とんでもない。東京とちがいまして、このバスに乗りおくれると狐に化かされてしまいますよ」
「ヤツ子さんは?」
「一足先に帰京されたのかも知れませんね。なんしろテンヤワンヤでして。モシモシ皆さん。本日の主賓、われらの芸術家を先にバスにお乗せ下さい」
五助は人々を拝み倒して六人を先頭にのせてくれた。約束の日当一人千円、それに往路の足代千七百七十円、まさか払わないとは思わないから、一行はせきたてられ泡をくらッてバスにのりこんだ。バスにのって、さてつらつら考えるに、チョッキリ帰りの足代を貰っただけでは夕食のサンドイッチにありつくこともおぼつかないのがようやく分った始末であった。昼飯の代用に蒸したジャガイモと一人当り三枚ほどのセンベイのモテナシをうけただけであるから、一行は腹の皮が背中にひッつく状態で溜息をもらす力もなく帰京した。
★
信二は自宅裏の雑木林へヤツ子を誘った。夕食までの腹ゴナシと、ついでに抒情的感銘を深く切なくしようという寸法である。
ところがヤツ子が信二の云うままに唄を軽く切りあげて会場を去ったのは、その感銘に縁のない理由からだ。谷へのイヤガラセである。今日一日は谷の顔も見たくない。出演の義務だけ軽く果して、一時も早く彼の顔の見えないところで自由の息を吸いたかった。それに、も一ツ、甚だしく唯物的な理由もあったのである。
「井田さんは文化祭の幹事なさッていらッしゃるのでしょう」
と、ヤツ子は雑木林の雰囲気にはお構いなく、甚だ率直にその唯物的な問題をきりだした。
「幹事は幹事ですが、使い走りですね。大学卒業生は農村では他国者のようなものでしてね。実権は持てないのです」
ケンソンではない。万一の場合にそなえて、おのずからの防禦の体勢。知能と関係のない特殊な頭脳の廻転だ。
「幹事ではいらッしゃるのね」
「そうなんです」
「井田さんに申上げるの筋違いかも知れませんけど、私はね、この文化祭にバンドマスターの谷さんがなさった契約、不満なんです。バンドの人たちとケンカしたのが、そのためなんですわ。往復の汽車が三等でしょう。私だけ二等で来たのです。素人歌手のくせに生意気だと仰有るかも知れませんけど、学生のアルバイトだからむしろ誇りが持ちたいのね。みじめな思いでドサ廻りまでしたくないのです。この村の方だって、駅ぐらいまで出迎えて下さるのが当然じゃないかと思うんです。これは私だけの意見ですけどね。谷さんは卑屈よ。学生で素人でヘタだからという考えですけど、ヘタで素人で学生のアルバイトだから、せめて汽車は二等車に乗りたいと思うのよ。駅と村の往復もタクシーでやっていただきたかったんですけど、駅にタクシーがないようですから、これは我慢しますわ」
静寂な自然も三文の値打もない。抒情的感銘を唐竹割りにされたから信二も痴夢から目がさめたが、なに目がさめれば借金とり撃退はお手のもの、これぞ人生のよろこびだ。けなげにも太刀さき鋭く二等運賃を請求するとはアッパレな乙女、なんたる見事な風情であろうか。思わずその新鮮爽快な色気がぞくぞくと信二の身にしみ、彼は恍惚となって武者ぶるいをしたのである。
「実に正当な御意見ですね。むろん二等、むしろ特別二等、もしくは一等車ですよ。さっそく幹事長に伝えて、御満足のいくように取りはからうつもりですが、なにせ百姓連中でしょう。バスの代りには歩くんです。汽車の代りには自転車でしょう。自分がそうですから、汽車の三等だってゼイタクだという考えなんです。汽車の屋根に四等席をつくってやっても、むしろ汽車の下に五等席をつくれと云うにきまっています。そのくせ五等席にも乗りたがらずに、足で間に合わせるのがなお利口だという考えなんです。この連中を説き伏せるのは、竿で星を落すぐらいメンドーかも知れませんが、あなたのためにこの連中と闘うことは、むしろボクのよろこびですね。ボクはとてもうれしいのです」
「うれしいッてことじゃアないと思いますけどね。商用ですからね。純粋な取引でしょう」
「ですから、うれしい。商用のお役に立つことが、とてもうれしいのです。人生は商用につきますから」
「ハア、そうですか」
「特にアナタは女性ですし、あの満員の聴衆を集めたのも主としてアナタの力ですから、他の六名を合わせたぐらいの報酬を要求なさっても当然なんですね。ボクは幹事長にそれを要求しましょう」
「それは無理というものですわ」
「エエ、もうあの連中にとっては全てのことが無理なんです」
「私はね。ただ私だけでも二等運賃をいただいて、谷さんに見せつけてやりたいのです。そのミセシメが必要だと思うんですよ。その程度の誇りを持つべきであるということを」
「むろんですとも。では応接間で待ってて下さい。幹事長をつれて来ますから」
ありがたいことになったと信二は大いによろこんだ。もろもろの関係のうち、金銭関係ほど密接無二のものはない。人間が裸体である時よりももっと裸の関係だ。この関係にある時こそ人の心と心が最もふれ合う時なのである。借金をとられる奴ととる奴とが熱烈な恋におちるのが人生の自然というものであるのに、人生は皮肉だ。貧乏人にも高利貸にも美人がいないから、不幸にして偉大な恋愛が生れない。それにつけても小森ヤツ子の颯爽たる武者ぶりよ。けなげなる色気よ。あふれるような情感だ。これを一口たべなければ男というものではない。
信二は五助を人気はなれたところへ呼んで、
「実はこれこれで、小森ヤツ子が二等運賃を請求しているが、キミひとつ幹事長の悪役をやってもらいたい」
「おやすいことです。しかし、女性一人ぐらい二等で帰してもいいじゃありませんか」
「いけませんね。彼女は所持金もあるようだから、帰りの三等運賃も差上げなくともよろしいかも知れませんね」
「そこまではボクにはやれそうもありませんが」
「イエ、そのときはボクがやります。では、ひとつ、幹事長」
「ハイ、ハイ。かしこまりました」
信二は五助をつれてきてヤツ子に紹介した。五助は大きな会社の重役かのように悠々と煙草をくゆらしながら、
「二等というお話の由ですが、差上げたいのは山々なんですけれども、予算がありましてね。その予算がまた見事に狂いまして、本日の入場者千何百人のうちお金をだして切符を買って正式に入場したのが三十名ぐらいでしょう。三十円が三十枚で、たった九百円か。ウーム。これはまた少なすぎたな。どうにもならねえなア、九百円じゃア」
「それは会場整理の立場にあるアナタ方の責任ですわ」
「それはもう、たしかに我々の責任ですとも。ですから、いっそ自殺しようか、なんてことを云う者もあるし、死ぬにはまだ惜しい命だなんて声もあるし、テンヤワンヤですね。
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