べく偉大なる博士を脅かさないやうに、特に静粛なポオズをとつて口上を述べたのであるが、結果に於てそれは偉大なる博士を脅かすに充分であつた。なぜなら偉大なる博士は色は褪せてゐたけれど燕尾服を身にまとひ、そのうえへ膝頭にはシルクハットを載せて、大変立派なチューリップを胸のボタンにはさんでゐたからである。つまり偉大なる博士は深く結婚式を期待し、同時に深く結婚式を失念したに相違ない色々の条件を明示してゐた。
「POPOPO!」
 偉大なる博士はシルクハットを被り直したのである。そして数秒の間疑はしげに僕の顔を凝視めてゐたが、やがて失念してゐたものをありありと思ひ出した深い感動が表れたのであつた。
「TATATATATAH!」
 已にその瞬間、僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向ふ側に見失つてゐた。僕はびつくりして追跡したのである、そして奇蹟の起つたのは即ち丁度この瞬間であつた。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。
 諸君、開いた形跡のない戸口から、人間は絶対に出入しがたいものである。順つて偉大なる博士は外へ出なかつたに相違ないのである。そして偉大なる博士は邸宅の内部にも居なかつたのである。僕は階段の途中に凝縮して、まだ響き残つてゐるそのあわただしい跫音《あしおと》を耳にしながら、ただ一陣の突風が階段の下に舞ひ狂ふのを見たのみであつた。
 諸君、偉大なる博士は風となつたのである。果して風となつたか? 然り、風となつたのである。何となればその姿が消え去《う》せたではないか。姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である風である風である。諸氏は尚、この明白なる事実を疑るのであらうか? それは大変残念である。それでは僕は、さらに動かすべからざる科学的根拠を附け加へやふ。この日、かの憎むべき蛸博士は、恰もこの同じ瞬間に於て、インフルエンザに犯されたのである。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青い馬 第二号」
   1931(昭和6)年6月1日
初出:「青い馬 第二号」
   1931(昭和6)年6月1日
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:砂場清隆
校正:土屋隆
2008年4月11日作成
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