て今や、唯一策を地上に見出すのみである。然り、ただ一策である。故に余は深く決意をかため、鳥打帽に面体を隠してのち、夜陰に乗じて彼の邸宅に忍び入つたのである。長夜にわたつて余は、錠前に関する凡そあらゆる研究書を読破しておいたのである。そのために、余は空気の如く彼の寝室に侵入することができたのである。そして諸君、余は何のたわいもなくかの憎むべき鬘を余の掌中に収めたのである。諸君、目前に露出する無毛赤色の怪物を認めた時に、余は実に万感胸にせまり、溢れ出る涙を禁じ難かつたのである。諸君よ、翌日の夜明けを期して、かの憎むべき蛸はつひに蛸自体の正体を遺憾なく曝露するに至るであらう! 余は躍る胸に鬘をひそめて、再び影の如く忍び出たのである。
 しかるに諸君、ああ諸君、おお諸君。余は敗北したのである。悪略神の如しとは之か、ああ蛸は曲者の中の曲者である。誰かよく彼の神謀遠慮を予測しうるであらう乎。翌日彼の禿頭は再び鬘に隠されてゐたのである。実に諸君、彼は秘かに別の鬘を貯蔵してゐたのである。余は負けたり矣。刀折れ矢尽きたり矣。余の力を以つてして、彼の悪略に及ばざることすでに明白なり矣。諸氏よ、誰人かよく蛸を懲す勇士はなきや。蛸博士を葬れ! 彼を平和なる地上より抹殺せよ! 諸君は正義を愛さざる乎! ああ止むを得ん次第である。しからば余の方より消え去ることにきめた。ああ悲しいかな。

 諸君は偉大なる風博士の遺書を読んで、どんなに深い感動を催されたであらうか? そしてどんなに劇しい怒りを覚えられたであらうか? 僕にはよくお察しすることが出来るのである。偉大なる風博士はかくて自殺したのである。然り、偉大なる風博士は果して死んだのである。極めて不可解な方法によつて、そして屍体を残さない方法によつて、それが行はれたために、一部の人々はこれは怪しいと睨んだのである。ああ僕は大変残念である。それ故僕は、唯一の目撃者として、偉大なる風博士の臨終をつぶさに述べたいと思ふのである。
 偉大なる博士は甚だ周章《あわ》て者であつたのである。たとへば今、部屋の西南端に当る長椅子に腰懸けて一冊の書に読み耽つてゐると仮定するのである。次の瞬間に、偉大なる博士は東北端の肱掛椅子に埋もれて、実にあわただしく頁をくつてゐるのである。又偉大なる博士は水を呑む場合に、突如コップを呑み込んでゐるのである。諸君はその時、実にあわ
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