起ったのは即ち丁度この瞬間であった。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。
諸君、開いた形跡のない戸口から、人間は絶対に出入しがたいものである。順《したが》って偉大なる博士は外へ出なかったに相違ないのである。そして偉大なる博士は邸宅の内部にも居なかったのである。僕は階段の途中に凝縮して、まだ響き残っているその慌しい跫音《あしおと》を耳にしながら、ただ一陣の突風が階段の下に舞い狂うのを見たのみであった。
諸君、偉大なる博士は風となったのである。果して風となったか? 然り、風となったのである。何となればその姿が消え失せたではないか。姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である風である風である。諸氏は尚、この明白なる事実を疑るのであろうか。それは大変残念である。それでは僕は、さらに動かすべからざる科学的根拠を附け加えよう。この日、かの憎むべき蛸博士は、恰《あたか》もこの同じ瞬間に於て、インフルエンザに犯されたのである。
底本:「坂口安吾全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1989(
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