で、授業を押しつけられても不平を言わなかった。腹が立つと女房をブン殴ったり蹴とばしたり、あげくに家をとびだして、雑木林や竹藪へはいって、木の幹や竹の木を杖でメチャクチャに殴っている。それはまったく気違いであったが、大変な力で、手が痛くないのか、五分間ぐらいも、エイエイエイ、ヤアヤアヤアと気合をかけて夢中になぐっている。
 この節の若者は、とか、青二才が、とか口癖であったが、私は当時まったく超然|居士《こじ》で、怒らぬこと、悲しまぬこと、憎まぬこと、喜ばぬこと、つまり行雲流水の如く生きようという心掛であるからビクともしない。尤も私に怒ると転居されて下宿料が上らなくなる怖れがあるから、そういうところは抜目がなくて、私にだけは殆ど当りちらさぬ。先生は全部で五人で、一年の山門老人、二年の福原女先生、三年の石毛女先生、この山門老人が又超然居士で六十五だかで、麻布からワラジをはいて歩いて通ってくる。娘には市内で先生をさせ、結婚したがっているのだそうだが、ドッコイ、許されぬ、もう暫《しばら》くは家計を助けて貰わねばならぬ、毎日もめているから毎日私達にその話をして、イヤハヤ色気づいてウズウズしておりますよ、アッハッハと言っている。子供が十人ちかいから生活が大変で、毎晩一合の酒に人生を托している。主任は酒をのまない。
 小学校の先生には道徳観の奇怪な顛倒がある。つまり教育者というものは人の師たるもので人の批難を受けないよう自戒の生活をしているが、世間一般の人間はそうではなく、したい放題の悪行に耽《ふけ》っているときめてしまって、だから俺達だってこれぐらいはよかろうと悪いことをやる。当人は世間の人はもっと悪いことをしている、俺のやるのは大したことではないと思いこんでいるのだが、実は世間の人にはとてもやれないような悪どい事をやるのである。農村にもこの傾向があって、都会の人間は悪い、彼等は常に悪いことをしている、だから俺たちだって少しぐらいはと考えて、実は都会の人よりも悪どいことを行う。この傾向は宗教家にもある。自主的に思い又行うのでなく他を顧て思い又行うことがすでにいけないのだが、他を顧るのが妄想的なので、なおひどい。先生達が人間世界を悪く汚く解釈妄想しすぎているので、私は驚いたものであった。
 私が辞令をもらって始めて本校を訪ねたとき、あなたの勤めるのは分校の方だからと、分校の方に住んでいる女の先生が送ってくれた。これが驚くべき美しい人なのである。こんな美しい女の人はそのときまで私は見たことがなかったので、目がさめるという美しさは実在するものだと思った。二十七の独身の人で、生涯独身で暮す考えだということを人づてにきいたが、何かしっかりした信念があるのか、非常に高貴で、慎しみ深く、親切で、女先生にありがちな中性タイプと違い、女らしい人である。私はひそかに非常にあこがれを寄せたものだ。本校と分校と殆ど交渉がないので、それっきり話を交す機会もなかったが、その後数年間、私はこの人の面影を高貴なものにだきしめていた。
 村のある金持、もう相当な年配の男だそうだが、女房が死んでその後釜にこの女の先生を貰いたいという。これを分校の主任にたのんだものだ。何百円とか何千円とかの謝礼という約束の由で、そのときのこの主任の東奔西走、授業をうっちゃらかして馳け廻って、なにしろ御本尊の女先生が全然結婚自体に意志がないので無理な話だ。毎日八ツ当りで、その一二ヶ月というもの、そわそわしたこの男の粗暴というより狂暴にちかい癇癪は大変だった。
 私は行雲流水を志していたから、別段女の先生に愛を告白しようとか、結婚したいなどとは考えず、ただその面影を大切なものに抱きしめていたが、この主任の暗躍をきいたときには、美しい人のまぼろしがこんな汚らしい結婚でつぶされてはと大変不安で、行雲流水の建前にも拘《かかわ》らず、主任をひそかに憎んだりした。
 石毛先生は憲兵曹長だかの奥さんで、実に冷めたい中性的な人であったが、福原先生はよいオバサンであった。もう三十五六であったろうが、なりふり構わず生徒のために献身するというたちで、教師というよりは保姆《ほぼ》のような天性の人だ。だから独身でも中性的な悪さはなく、高い理想などはなかったが、善良な人であった。例の高貴な先生の親友で、偶像的な尊敬をよせていることも、私には快かった。多くの女先生は嫉妬していたのである。私が先生をやめたとき、お別れするのは辛いが、先生などに終ってはいけない、本当によいことです、と云って、喜んでくれて、お別れの酒宴をひらいてうんとこさ御馳走をこしらえてくれた。私は然し先生で終ることのできない自分の野心が悲しいと思っていた。なぜ身を捧げることが出来ないのだろう?
 私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧噪《けんそう》な校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、私に話しかけたような気がするのである。私はその朦朧《もうろう》たる放心の状態が好きで、その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけて、どやされることがあった。オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私を睨むのだ。
「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
 本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。私は夏も冬も同じ洋服を着、本は読み終ると人にやり、余分の所有品は着代えのシャツとフンドシだけで、あるとき私を訪ねてきた父兄の口からあの先生は洋服と同じようにフンドシを壁にぶらさげておくという笑い話がひろまり、へえ、そういうことは人の習慣にないことなのか、と私の方がびっくりしたものだ。フンドシを壁にぶら下げておくのは私の整頓の方法で、私には所蔵という精神がなかったので、押入は無用であった。所蔵していたものといえば高貴な女先生の幻で、私がそのころバイブルを読んだのは、この人の面影から聖母マリヤというものを空想したからであった。然し私は、あこがれてはいたが、恋してはいなかった。恋愛という平衡を失った精神はいささかも感じなかったので、せめて同じこの分校で机を並べて仕事ができたらいいになアと、私の欲する最大のことはそれだけであった。この人の面影は今はもう私の胸にはない。顔も思いだすことができず、姓名すら記憶にないのである。

       ★

 私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。
 雨の日は雨の一粒一粒の中にも、嵐の日は狂い叫ぶその音の中にも私はなつかしい命を見つめることができた。樹々の葉にも、鳥にも、虫にも、そしてあの流れる雲にも、私は常に私の心と語り合う親しい命を感じつづけていた。酒を飲まねばならぬ何の理由もなかったので、私は酒を好まなかった。女の先生の幻だけでみたされており、女の肉体も必要ではなかった。夜は疲れて熟睡した。
 私と自然との間から次第に距離が失われ、私の感官は自然の感触とその生命によって充たされている。私はそれに直接不安ではなかったが、やっぱり麦畑の丘や原始林の木暗い下を充ちたりて歩いているとき、ふと私に話かける私の姿を木の奥や木の繁みの上や丘の土肌の上に見るのであった。彼等は常に静かであった。言葉も冷静で、やわらかかった。彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。
 だが私は何事によって苦しむべきか知らなかった。私には肉体の慾望も少なかった。苦しむとは、いったい、何が苦しむのだろう。私は不幸を空想した。貧乏、病気、失恋、野心の挫折、老衰、不知、反目、絶望。私は充ち足りているのだ。不幸を手探りしても、その影すらも捉えることはできない。叱責を怖れる悪童の心のせつなさも、私にとってはなつかしい現実であった。不幸とは何物であろうか。
 然し私はふと現れて私に話しかける私の影に次第に圧迫されていた。私は娼家へ行ってみようか。そして最も不潔なひどい病気にでもなってみたらいいのだろうか、と考えてみたりした。
 私のクラスに鈴木という女の子がいた。この子の姉は実の父と夫婦の関係を結んでいるという隠れもない話であった。そういう家自体の罪悪の暗さは、この子の性格の上にも陰鬱な影となって落ちており、友達と話をしていることすらめったになく、浮々と遊んでいることなどは全くない。いつも片隅にしょんぼりしており、話しかけるとかすかに笑うだけなのである。この子からは肉体が感じられなかった。
 私は不幸ということに就て戸惑いするたびに、この十二の陰鬱な娘の姿を思い出した。
 石津という娘と、山田という娘がいた。私はこの二人は生理的にももう女ではないのだろうかと時々疑ったものだが、石津の方は色っぽくて私に話しかける時などは媚《こ》びるような色気があったが、そのくせ他の女生徒にくらべると、嫉妬心だの意地の悪さなどは一番すくなく、ただやがて弄《もてあそ》ばれるふくよかな肉体だけしかないような気がする。これも余り友達などはない方で、女の子にありがちな、親友と徒党的な垣をつくるようなことが性格的に稀薄なようだ。そのくせ明るくて、いつも笑ってポカンと口をあけて何かを眺めているような顔だった。
 山田の方は豆腐屋の子で、然し豆腐屋の実子ではなく、女房の連れ子なのである。その妹と弟は豆腐屋の実子であった。この娘は仮名で名前だけしか書けない一人で、女の子の中で最も腕力が強い。男の子と対等で喧嘩をして、これに勝つ男はすくないので、身体も大きかったが、いつも口をキッと結んで、顔付はむしろ利巧そうに見える。陰性というのとも違う、何か思いつめているようで、明るさがなく、全然友達がない。喋ることに喜びを感じることがないように人と語り合うことがすくなく、それでも沈黙がちに遊戯の中へ加わって極めて野性的にとび廻っている。笑うことなどはなく、面白くもなさそうだが、然し跳ね廻っている姿は他の子供に比べると格段にその描きだす線が大きく荒々しく、まったく野獣のような力がこもっていて、野性がみちていた。そのくせ色気が乏しい。大胆不敵のようだが、実際は、私は他の小さなたわいもない女生徒の方に実はもっと本質的な女自体の不敵さを見出していたもので、嫉妬心だの意地の悪さだの女的なものが少いのである。今は早熟の如くでも、すべてこれらの子供達が大人になったときには、結局この娘の方が最後に女から取り残され、あらゆる同性に敗北するのではないかと私は思った。
 この娘の母親がある一夜私を訪ねてきたことがある。この娘の特別の事情、つまり、何人かの妹弟の中でこの娘だけが実子でないために性格がひねくれていることを説明して、父母の方では別に差別はしていないのだから、もっと父に打ちとけるように娘にさとしてくれというのだ。この母親は淫奔な女だという評判で、まったく見るからに淫奔らしい三十そこそこの女であ
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