深さを原因の幼稚さで片づけてはいけない。そういう自責や苦悩の深さは七ツの子供も四十の男も変りのあるものではない。
 彼は泣きだした。彼は学校の隣の文房具屋で店先の鉛筆を盗んだのである。牛乳屋の落第生におどかされて、たぶん何か、おどかされる弱い尻尾があったのだろう、そういうことは立入ってきいてやらない方がいいようだ、ともかく仕方なしに盗んだのである。お前の名前など言わずに鉛筆の代金は払っておいてやるから心配するなと云うと、喜んで帰って行った。その数日後、誰もいないのを見すましてソッと教員室へやってきて、二三十銭の金をとりだして、先生、払ってくれた? とききにきた。
 牛乳屋の落第生は悪いことがバレて叱られそうな気配が近づいているのを察しると、ひどくマメマメしく働きだすのである。掃除当番などを自分で引受けて、ガラスなどまでセッセと拭いたり、先生、便所がいっぱいだからくんでやろうか、そんなことできるのか、俺は働くことはなんでもできるよ、そうか、汲んだものをどこへ持ってくのだ、裏の川へ流しちゃうよ、無茶言うな、ザッとこういうあんばいなのである。その時もマメマメしくやりだしたので、私はおかしくて仕方がない。
 私が彼の方へ歩いて行くと、彼はにわかに後じさりして、
「先生、叱っちゃ、いや」
 彼は真剣に耳を押えて目をとじてしまった。
「ああ、叱らない」
「かんべんしてくれる」
「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」
 彼はいつもウンウンと云って、きいているのである。
 こういう職業は、もし、たとえば少年達へのお説教というものを、自分自身の生き方として考えるなら、とても空虚で、つづけられるものではない。そのころは、然し私は自信をもっていたものだ。今はとてもこんな風に子供にお説教などはできない。あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。
 私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それ
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