で試合する。ところが昔のままの剣法だから全く実戦向きの剣法なのである。遊び半分の百姓剣法だろうなぞと講談本にでてくる生意気な武者修業者のようなことを考えると大マチガイで、真剣勝負に徹した怖るべき剣法である。今日の竹刀向きの剣術のように丁々ハッシと竹刀でぶんなぐりッこするような技法がない。
「無構え」という妙なヘッピリ腰で三四間離れて立ち、ジリジリと寄ったり離れたりマをはかって、とたんに「ヤットオ」と斬りこむ。攻撃はその一手。
受け手の方は体をひらいて斬り返すか、退いてかわして斬るか、もしくは進んでツバ元で受けて巻き落して斬り返すか、いずれかで、攻めても受けても、どっちにしても一撃できめようという剣法だ。
「無構え」というヘッピリ腰が面白い。しかしよくよく見ると恐しい構えである。百メートル走者の疾走中の瞬間写真のような体形が基本になっている。空中を走る姿を地上に置いたのが無構えで、したがって、いきなり飛びだすに一番都合のよい体形だ。竹刀は横にかまえてブラブラと足とともにハズミをつけているが、力は常に足にある、斬りこむ速力の剣法である。完全に実戦から生れて育ったままの剣法で、お体裁というものが全く見られない。
昔、江戸の言葉に、剣術をヤットオと云い、剣術使いをヤットオ使いと云ったものだが、馬庭念流のカケ声は今でも昔のままヤットオである。
二十四代剣の伝統をつたえる樋口家には昔のままの道場も現存し、門が道場になってる。その建物だけはさすが道場らしい威風があるが、門内の居宅は小さなタダの百姓屋。どこにも威風のない当り前の小さな百姓屋である。それが実に好ましい。
いかに里にとじこもるとはいえ、二十四代もうちつづく伝統の家なら自然豪族風や教祖風になりそうなものだが、そういう風がミジンもなくて、しかも今日も尚伝統をつたえているところがすばらしい。それが馬庭念流です、と質素な百姓屋が先祖代々の正しい誇りを語っているように見える。
道場びらきにいろいろな型の披露があったが、古来からの「無構え」のすばらしさにくらべて、江戸の中期以降に附け加えたという矢留めや竹割りはどうかと思った。
紙にぶらさげた青竹をわる。これは石を拳骨でわるのと共に、田舎の祭礼や縁日なぞに唐手使いと称する香具師《やし》がやって見せる芸である。むろんその香具師は薬を売るための客寄せにやって見せるだけで、本
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