せに、没落階級つて、ひねくれて、すねるばかりで、みぢめなものなのね。自分の流儀を忘れてしまつて、ブツブツ不平をこぼすことしか知らないのですもの。だからタイタイ大先生からウンと御説教していたゞくといゝのよ。して下すつたでせう、先生のことですもの」
「ところがダメなんだよ。あべこべにやられてしまつて。実は君、タイタイ大先生ともあらうものが羞しい話だけれども、こゝに一大強敵があつてね、女房といふ傲慢無智な階級に対しては、なんとしても敵し難い。煮ても焼いても食へないといふのは、あの連中だ。物の理はもうあの連中の耳にはとゞかないんだね。いかなる悪漢も改悛の余地はある。しかし、女房はもはやない。だからタイタイ大先生はコン棒をぶらさげてエロ文学ボクメツに乗りこんでくる暴力団はまだしも怖れないけれども、女房はダメだ! たつた一人でも怖しい。敵しがたい。常に無慙に敗れ去り、いまだに勝つたこともなく、死に致るまで、勝つ見込みもない」
「よく分るのよ、先生。でも、先生は男でせう。どう間違つてもあんな化け猫になる筈ないから安心ですもの。私たちときたら、うつかりすると自分が化け猫になつちやうのですもの。私たち、さう自信があるわけでもないでせう、とてもなりさうな気がするのよ。その不安、嫌悪、憎悪といふのね、これも先生のお言葉よ、察してちやうだい。悪戦苦闘してゐるのよ」
「まことに同憂の至だ。時に先刻からお客が一向に現れないが、いつもカンサンかね」
「あんまりはやる方ぢやないわね。多い時でも十四五人かな。少い日は二三人。私は知らないけど、雨の日など、一人もない日があつたんですつて。四五日前に来た学生があつたのよ、お酒の店は高くつて毎日来ることができないから自分の行きつけの喫茶店へ住みかへろつてしつこく言ふのよ。ずいぶん自分勝手ね。文学の話なんかしてタイタイ先生をエロ作家だなんて言ふのですもの。自分の方がエロなのよ。するとその翌日高等学校の生徒がのんだくれてやつてきたのよ。この坊やはね、東大の試験にスベッちやつたのよ。「国文学史上に於て価値高き十名の作家をあげよ」とかなんとかいふ問題にね、現代に於てはタイタイ先生と書いたもんでダメだつたんですつてさ。無鉄砲な子ね。一緒に来た友達が無鉄砲すぎると云つたのよ。無鉄砲なんてわけが分らないんですつてさ。本当のことを書いたんだから、無鉄砲ぢやなからう、なんて、そこで私が教へてあげたのよ。タイタイ先生は入学試験のときなんかに本当のことを書かないたちだつて。入学試験だの入社試験に本当のことなんか言はないものよ。だつて間に合へばいゝのですもの。間に合せのきかない時だけ本当のことを言ふのよ。相手次第で変化しろ、馬鹿の一つ覚えほど真実に遠いものはない、これはタイタイ大先生の言葉だと云つたら、とてもビックリしたわよ。自殺するのをやめたんですつて。田舎へ帰つてタイタイ先生に手紙を書くさうよ」
タイタイ先生は愛弟子《まなでし》の前で男を下げるのは残念だと思つたけれども、思ひきつてきくことにした。
「それで君、こんな店でも、お客がチップをおくのかね?」
これは決してマリマリ先生夫妻の心を察してきいたわけではない。男を下げてもかういふ下品な探偵根性をさらすには、まことにゲスな理由があつて、タイタイ先生はもうわが愛弟子がひどく可愛くなつてゐた。金の出所が気がゝりになつたのである。見下げ果てた心事であるが、十九の娘にそこまでは見抜かれまいと心得て、とりすましてゐる。
「君は八百円も持つてゐたさうだね」
「あら、ほんとは千三四百円あつたのよ。自分で使つちやつたのよ。始めはきまりが悪かつたけど、だつて、さうですもの、こつちで何もあげないのに、あら、ほんとよ、セップンぐらゐさせてあげないといけないのかと思つちやつて、マッカになつちやつたんですもの」
「あらまア、あのときは、それでマッカになつたのね」
「えゝ、まア、そんなものなのよ」
タイタイ先生は心中おだやかでない。思はず先生自らがマッカになりかけるのをゴマかすためにカストリをガブリとのみすぎて、むせてしまつた。
女といふ怪物は気を許すと小娘でもしてやられる。愛弟子などゝ甘く見てゐると、根本的に素性が違ふから、やにわにノサれてしまふのである。どつちが弟子だか分らない。
先生も手違ひに気がついたから、もう愛弟子などゝいふ甘つたれた見方はやめて、可愛いゝ女、と見ることにした。
「そのお客は若い人かい」
「四人ゐるのよ、私にチップをおいてく人はね。一人は、おぢいさん。一人は、やつぱり、おぢいさんだ。次の一人は、帽子屋だけど、これもおぢいさんね。みんな先生ぐらゐの年配ね。あら、先生、ごめんなさい。おぢいさんぢやなくつて、オヂサンだ。だけど、私は若い人よりオヂサンたちが好きなんですもの。それに酔つ払ひが好き。なぜなら酔つ払ひは怖くないもの。酔はない男はとても怖いわ」
「あら、あなたはそんなことを云つて、いつといゝ人をごまかしてゐるのね。ずるいわ。それもタイタイ先生の流儀?」
「まア、お待ちなさい。順に述べて行くのですから」
三十才のマダムよりは十九のマリマリ嬢がどうしてもウハ手なのである。つまりマダムは古風だ。世間の女の誰しもがこんな時にはこんな風に言ふといふ言葉しか言へない。マリマリ嬢は自分の流儀で喋りまくつてゐるだけの相違なのである。
「三人のオヂサンのほかに、もう一人チップを下さるお客様は、これがどうも、来てくれないかな、説明ができないのですもの。タイタイ先生に見ていたゞきたいわ」
「それなんだね。君がこれから余は恋をするであらうと言つてパパママに宣言したといふ対象は?」
「えゝ。でもその方一人ぢやないのよ。私、恋をするとき一人だけぢやイヤなんですもの。三四人、一緒にやりだすつもりなのよ。一人ぢや物足りないでせう。でもまだ今のところ、その方と、そのほかに一人。二人だけでせう。あと二三人手頃なのが揃つてから、やりだすのよ」
「大いによろしい。双手《もろて》をあげて賛成だな」
「さすがだなア、タイタイ大先生は!」
マリマリ嬢は胸のあたりをさぐつて、一服の薬の包みのやうなものをとりだした。
「時々くるお客さんがくれたのよ。神代から伝はる貴重な名薬ですつてさ」
「ほゝう」
「エモリの黒焼よ」
「エモリの黒焼か。これが」
「飲んでみる?」
「イヤイヤ。これは、たしか、飲むものではなかつた筈だ。何食はぬ顔で相手の後姿か何かへふりかける筈のものだ。惚れない人を惚れさせる薬だから、飲ませるチャンスはないのだよ」
「飲ませれば、尚きくでせう」
「四五人取揃へたあかつきに、これを飲ませるつもりかい」
「さうぢやなくつてよ。その一人一人から、私の方が飲ませてもらうのよ。なんとかならないかしら。今のところ、自信がないのですもの。先日、駅まで送らせて、手を握らせてみたのだけど、気持のわるいものなのね。なんとなく、うるさくなるばかりなんですもの。むかむかしちやつて、横ッ面をヒッパタきたくなつちやうのですもの」
「それでは、かへる」
タイタイ先生は立上つた。三百円づゝチップをふんぱつした。
先生はダメなのである。本性劣悪であるところへ、酔へば更に下劣だから、手を握らせて悦に入らせてくれる女の方が趣味にかなつてゐる。先生はそつちの方を思ひだして行かなければならなくなつた。
マリマリ嬢は人差指でコメカミのあたりをクリクリ突きまはしながら片目をつぶつてニヤニヤした。
「さすがに大先生は気前がいゝのね。困つちやつたな。私、先生にエロサービスしようかなア」
「エロサービスは大先生の趣味ではない」
先生はそこで始めて大いに威厳のあるところを見せた。
「エロサービスはもつぱら愛情によつてなすべきものだ。これを金額に応じてなすべきものではない。これはすでに亡びたる昔日の道徳にすぎない。もとよりマノン・レスコオが恋人であるタイタイ大先生の見解によれば、エロサービスは金額に応じてなさるべきものである。しかしかゝるエロサービスは当人が天来の技術者であり芸術家であるときに成りたつのであつて、文学に於けるが如く、エロサービスに於ても、天分なきもの、又、天分の開花なきものが、この道にたづさわつてはいけないものだ」
「私、先生のガマ口の中味を横目でにらんぢやつたのよ。さすがにお金持なのね。をいしいもの、御馳走してちやうだいよ」
「よろしい。支度をして出てきなさい」
「アラ、うれしい」
タイタイ先生が路上へでゝ待つてゐると、マリマリ嬢は身支度して出てきて、いきなりタイタイ先生にとびついた。
「うれしいわ、先生」
顔をよせてさゝやいたと思ふとセップンした。それから先生の片腕へ自分の片腕をまはし、別の片手で先生の掌を握つて、からだでぐい/\押すやうにもたれかゝつて歩きだした。
「時々こんなことをやるのかい」
「大先生だけよ」
「それにしては、なれたものだ」
「天才があるのよ。分らないのかなア、先生は」
しかしタイタイ先生の心眼によると、天分があるやうではなかつたのである。この程度までは誰でもやれる。先生は文学者だから、綴方《つづりかた》と小説の相違、天分とか才能の限界に就て常々ギンミになやむ思ひが去らず、それが先生自らのボンクラ性に対しての悲劇的な悩みの種でもあるのだから、この心眼の観察力は悲痛なほど深刻、シンラツであつた。
先生は自分の娘にエロサービスをされてゐるやうなクスグッタさと、味気なさに当惑した。
初歩の文化が起るとき、先づ父子相姦が禁じられるのは、たぶんその最も強烈な原始的エロチシズムの魅力のせゐによるのだらう。こゝには太陽の下の原色的なエロチシズムがある。
まだ十二三の未熟な少女がまづ父親に男を見出して本能的なエロチシズムを働きかけるとき、そこに現はすエロチシズムの芽は、その女の一生の最も強烈なエロチシズムの原色を示す。この原色の烈しさをぼかす心のカラクリがまだないからだ。かうして原色のエロチシズムは父を兄を対象として発育しつゝ、同時に原色的なものと対立する心のカラクリが発育してこれを包み、隠し、とぢこめて成人する。そして恋をするころには、もはや原色のエロチシズムは失はれ、隠されてゐる。
しかし、この原色のエロチシズムは天分ではなく、本能だ。相当に技巧的なものに見えても、本能も亦《また》技巧的なものであり、蜘蛛は生れながらにしてあの微妙な巣を織るではないか。マノン・レスコオ。又、メルトゥイユ侯爵夫人の天分はかくの如きものではないのである。
誰しも持てる力について、実験してみたいといふ気持がある。しかし時代の生活感情がそれを許さなければ、こんな実験慾は小さな芽のうちに、しほれてしまふ。ところが時代感情がそれを許すと、同時に、それを育てゝしまふ。前大戦の後ではフランスが今の日本と同じことで、ガルソンヌなどゝいふ実験少女が現れたものだ。
然し、実験者は天才ではない。又、生涯をその道に殉じようといふその道の鬼でもないのである。実験に失敗するとそれまでゞ、元のモクアミ、実験の疲れだけ余計なシミを残したやうなものだ。
実験から実験へ、更により良き結果をもとめて、その生涯を実験室で終るやうなガルソンヌはめつたにゐない。所詮一度でやめてしまふ実験なのだから、大事なことは、その唯一の実験の課題の程度が高いこと、せめてそれが問題だが、マリマリ嬢の実験課題はタイタイ先生の粗雑なノートからでゝきてゐるので、タイタイ先生もせつないところだ。
二人は先づスキ焼をくひ、ビフテキをくひ、次にサシミと天ぷらをくつた。
「先生、エロサービスの酒場へ行きませうよ。凄いお店の名前、三軒きいて暗記してゐるのよ」
「お待ちなさい。エロサービスは大先生の好むところだけれども、エロサービスにも色々とある。天分あるもの、技術の修練高きもの、天分ありながら未熟なるもの、ボンクラなるもの、その他、無数の差別段階があるなかで、大先生のお気に召すエロサービスはめつたにない。大先生ほどの進歩的な時代感覚の所有者になると、大先生はもはや物によろこぶとい
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