、着代へさせながら、父に言つた。
「死花つて、何をするつもり」
「…………」
 父はふりむいて波子を見たが、そこに「女」の笑顔を見ると、狼狽した。伝蔵の眼は、怖しく、光つた。
「いゝのよ。教へてくれなくとも」波子は甘えた。「だけど、パパ。思ひきつて、やつちやつて……」
 波子は、自分では気付かずに、眼が、ギラギラ光つた。
「私のことなら、かまはないわ。文なしになつたつて、私は、平気よ」
「馬鹿」
 父は、喋れた声で、波子の方を向かずに、叱つた。さうして、ひどく不機嫌になつて、出がけに、母に当りちらして、行つてしまつた。
 伝蔵が腹を立てたのは、ひとつには、自信がなかつたせゐでもあつた。子供の時から、小心で、これといふ大きなことには、どうしても決断のつかない性分だつた。人並以上のことを時々やりかけて、いつも、自信がなかつたのである。
 長男を北アルプスで失つて、心気一転、風流三昧の生活をはじめたのも、積り積つた失敗と悔恨の数々が、もはや、堪へがたい時だつたのだ。息子の遭難が、丁度いゝキッカケとなり、彼を救つてくれたのだ。なんとかして、足を洗はなければならない時であつたのだ。お前のおかげで、助かつた――後日、伝蔵は、息子の霊に、かう呟いたほどである。
 さうして、風流生活が始つた。
 それから七年、彼としては、よくつゞいた方である。性来の浮気性で、脂ぎつた、賑やかなことにふつゝり訣別できる伝蔵ではなかつた。再びヤマ気が頭をもたげる。死花を一花咲かせて、といふわけであるが、かう宣言して、そのことで毎日葉子と争ひながら、然し、性来の小心で、一番不安で、前進の勇気がないのは、実は、誰よりも、本人自身であつた。やらないうちから、すでに、自責と悔恨が、ちらついてゐた。
 風流三昧が、何より性に合つてゐたのだ……すでに、伝蔵は、泌々《しみじみ》とかう考へることがあつた。
 娘が、美しい小蛇のやうな「女」であらうとは。伝蔵は胸に針の痛さを感じた。驚くほどの色情を見たのであつた。
 思ひきつて、やつちやつて……と言ふ。私のことなら……伝蔵は、眼をとぢて、救ひを神にもとめたかつた。息つまるからだをうねらせて、燃える言葉を吐いてゐる。ギラ/\光る眼であつた。
 脆いほど、鋭く、かたい。いつ、崩れ、いつ、とびちるか、分らない。崩れゝば、地獄へおちる。伝蔵は、思はず、眼をとぢずにはゐられなかつた。
 あの色情を北アルプスで失つた方が、俺は、よつぽど、助かつた……伝蔵は、思はず、呟いた。
 何よりも、娘をかたづけることが、第一である。遠山謹厳居士に限る、彼は思つた。厭応《いやおう》なく、あの青年に押しつけてしまふに限る、と肚をきめてしまつたのだ。
 その日から、死花をめぐる相談ごとのドタン場へくると、伝蔵は一応沈黙して、何気ない風をしながら、実は、必ず波子の顔を思ひ浮べて、然し、それに就て何か考へをまとめるといふわけでもなく、たゞ、漠然と、余裕をつくることにしてゐた。さうして、
「娘が、色々と、私のことを心配して……」伝蔵は、非常に爽やかな笑顔をして、人々の顔を見廻す。「年寄の冷水だ、と、ひやかすのです。まつたく、孫のできる年で、あんまり無茶な、青年のやうな勇気にはやるのも大人げないと、だんだん思ふやうになつてきて……」
 彼はひどく好機嫌になつてきて、人の思惑に頓着なく、自分勝手な話をはじめる。さうして、その結びに、女房に泣きつかれるのは驚かないが、娘の意見といふものは、こたへるものだ、と附加へて、したり顔になる。益々機嫌よくなつて、アッハッハと、笑ふのである。

       五

 伝蔵のお供で、母と三人、京大阪から中国九州まで食べ歩いたとき、波子は家族といふものに就て、この人生の、いや、地球の土台のやうな心棒が、案外たよりない足場のうへに出来上つたグラ/\した安普請のやうな気がして、ふと、一番だいじな信念をなくしたやうな気持になつた。
 人生に疲れといふやうなものがある。さういふ魔物めく実体を、その時まで、知らなかつた。
 波子は、家庭といふものに就て、自分がこれから結婚し、さうして作る家庭。それに就ては、不安もあれば、希望もあつたけれども、自分が生れ、さうして、育つた家庭。これは、まつたく、別のものだ。それは地球の自転のやうに、意識することも疑ることも不可能な、微動もしない母胎だと考へてゐた。
 この家族が、幸福かどうかは、とにかくとして、平凡ではあるが、平和であると考へ、いや、考へもせず、これは、ただ、かういふものだと信じきつて、疑はなかつた。
 考へてみれば、家族づれの遊山《ゆさん》といふやうなものを、この家族は、殆んど経験したことがなかつた。ピクニックも、芝居見物も、先づ、三人そろつて出掛けたといふことは、殆んどない。
 波子は、自分だけ、友達と映画を見たり、劇場へでかけたり、好きなものを食べに行つたりして、それで充分に愉しかつたから、よその家族が一家そろつてピクニックだの芝居だのと出掛けて行くのを見聞しても、まつたく羨しいと思ふことがなかつた。けれども、それは、それで、愉しい筈だといふことも、決して疑つてはゐなかつた。
 それは波子が女学校を卒業した翌年の春であつたが、さうして、今から思へば、それが丁度伝蔵の風流三昧の最後の訣別になつたけれども、突然、一家三人で、関西へ食道楽の旅にでた。
 汽車の窓を早春の畑が走り、青々とした海原もひらけ、さうして、風が吹いてゐた。波子はそれを眺めて、綺麗な景色には、いつも、綺麗だと思ひながら、然し、この旅行のあひだ、一番はつきり眺めつゞけてきたものは、たゞ、蕭々《しょうしょう》と吹く風であつた。それは車窓を吹くばかりでなく、目をとぢれば、目と目のあひだ、又、物思ひと物思ひのあひだ、愁ひと愁ひのあひだをわけて、涯もなく、たゞ、吹いてゐる。西からきた風でもなく、南からきた風でもなかつた。たゞ、風。
 父と母、さうして、生れた家。――それは、波子にとつて、別々のものではなかつた。いつも、三つがひとつのもの。さうして、それだけが、ほかの世界と対立してゐた。さう考へたわけではなく、昔から、当然、さういふものであつた。
 然し、生れた家をでゝ、汽車の中で、すでに波子は、奇妙な現実にふと目覚めた。そこに、父はゐなかつた。たゞ、父とよばれる一人の知らない男と、母とよばれる一人の知らない女とがゐた。
 父が今、何を考へてゐるか、母は知らない。母が今、何を考へてゐるか、父は知らない。……さういふことが、なぜか、泌みるやうな切なさで、わけもなく考へられてくるのであつた。異体《えたい》の知れない他人同志が、今まで、何十年も、一緒にくらしてきてゐる――疑ふことのできない事実なのだ。さうして、いつか、自分といふ子供が生れ、これが又、子供とよばれる他人にすぎない。自分が今、このやうに考へてゐることすら、二人の他人は知らないではないか。……汽車は畑を走つてゐた。子供達が汽車に手をふり、叫んでゐる。波子は、突然立ち上つて、窓をあけて、蜜柑の網袋を子供達に投げてやつて「バンザイ」手をふつた。膝にのせてゐた雑誌が落ち、お茶がひつくりかへつた。
「気違ひのやうに。みつともない……」
 母とよぶ知らない女が、たしなめる。波子は笑ひだす。窓外は、春の花曇り。眼をとぢると、眼をつきぬけて、蕭々と風が吹いてゐる。さうして、波子は、風を見た。知らない人の心をつなぐ、暗い、ものうい風を見た。その風の吹き当る涯がない。その風につながれた心と心のむすぶことがないやうに。
 大原の寂光院へ行つたとき、それは四月の始めであつたが、もう祇園では花見のよそほひであつたのに、雪がチラ/\降りだした。
 手をあげて合図をすれば、バスはどこでも止つて乗せてくれるといふ話であつたから、清流づたひに、八瀬へ戻る道を歩いた。雪がチラついてゐるといふのに、伝蔵は無理な風流が好きなのだ。比叡の山々は、たれこめた雲にかくれて、半分も見えなかつた。
 渓流がまがる所に茶店があつて、素朴な立札があり「ちよつと休んで行かしやんせ」と書いてある。ちやうど、そのとき、渓流の藪のなかで、泌みるやうに冴えた声で、鶯が啼いた。たれこめた雲、冷え/\と流れる山気、さうして、渓流にふりこむ雪。けれども、それらの鋭い冷めたさにもまして、さらに冷めたく冴えきつた鋭く目覚ましい一声だつた。
 伝蔵は、立止つて、首をひねつた。
「おい、ちよつと……」
 伝蔵は、又、首をひねつた。
 彼は今、休んで行かしやんせ、に応じる名句を思ひださうとしてゐるのである。茶店へズイとはいりながら、その名句と共に乗込んで、妻子や茶店を賑はしてやらうといふ肚なのだ。あひにく、うまく、浮かばない。雪の降りしきる山中で、さう/\首をひねつてゐるわけにもいかない。あきらめて、
「ちよつと、休んで、行きヤンしよう」
 と、はいつて行つた。
 何事に首をひねつてゐるのかと思つてゐた二人は、行きヤンしよう、に噴きだしたが、鶯のあの一声に比べて、人の言葉のあまりにも甚しい貧しさに、波子は胸をつかれた。
「パパが下手くそな洒落を言ふから、もう、鶯も、啼いてくれない」
「アッハッハ。鶯も、啼かしやんせぬかい」
 雪が、急に、ひどくなつた。もう、歩けない。茶店で、バスを待ち、伝蔵は、山をつゝむ垂れこめた雲を見上げ、やがて、口をあけて、うと/\してゐる。葉子は、シバ漬といふ名物を買ひ、風呂敷に包み、やがて、その漬物を好みさうな知人の名を思ひだして、奥に向つて、改めて追加の註文をする。それを風呂敷に包み直して、又、知人の名をさがしてゐる。
「志田さんの御家族は、いくたりかしら。あなた……」
 葉子は、ふと、伝蔵に話心かける。伝蔵は、びつくりして、目をさます。
「なんだい。え? バスが来たのぢやないのか」
「いゝえ。この寒さに居眠りして、風をひくぢやありませんか。志田さんの御家族は、幾人。お子さんが、四人、五人?」
「さて。志田さんの子供は、と。五人ぐらゐだらう。それが、どうした」
 葉子は、それに、答へようともしない。それよりも、これが大事だといふやうに、又、風呂敷を包み直してゐるのである。たゞ、思ひついて、きいてみたゞけなのだ。伝蔵も亦、強ひて訊いてみようとはしなかつた。
「おや。雪が、つもりだしたぢやないか。ほら、笹の葉が、まつしろだ」
 伝蔵は叫ぶ。
「…………」
 葉子は、顔をあげようともしない。伝蔵の茶碗に、茶をついでゐる。……
 父も、母も、どうして、こんなに、平然としてゐられるのだらう。……波子は、奇妙に、胸苦しかつた。用もなく、居眠りの人をよびおこす。居眠りの人は目を覚して、然し、べつに、腹を立てた気配もない。てんでんが、バラ/\のくせに、どうして、こんなに、平然と、安心しきつてゐるのかしら。
 夫婦になる。子供を生む。――夫とよばれ、妻とよばれて、そのよびかたに、安心しきつて、身をまかしてゐる。夫とよぶ知らない男と、妻とよぶ知らない女が。
 何もかも、てんでんに、バラ/\だ。渓流の藪に鶯が啼いてゐる。茶店に、立札がある。雲がたれ、いちめんに、雪が降つてゐる。すべて、それらが、バラ/\のやうに、夫とよぶ知らない男と、妻とよぶ知らない女と、子供とよぶ知らない娘と、それが、てんでん、バラ/\に、集つてゐるだけである。……
 それにしても、あの渓流できいた鶯は、はりつめた山気すら鋭くつんざき、めざめるぐらゐ美しい一声だつた。さうして、あの雪のふる渓流も、あれは都から何里も離れない所だといふのに、人の訪れを映したことすらもない幽気にみちた色調だつた。
 だが、その鶯も、啼声の美しかつたことだけは忘れてゐないが、もはや耳には、思ひだせない。さうして、渓流の深い色も、心の底に、もう、色あせてしまつてゐた。
 たゞ、今も尚、忘れることのできないものは、旅のあひだ吹きつゞけた、あの、涯のない風であつた。からだのまはりに何物もなく、縋るべき一人の知りびともなく、着々と吹く風のみがあつた。眼をとぢれば、眼に、その風が、見えてゐた。さうして、今
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