その日は、夕食も外でたべて、人々の寝しづまる頃に帰つて来た。友達も誘はず、一日、ひとり、歩きくらして来たのである。せつない一日であつた。
 どこへ行つても、人がゐる。人、人である。人のゐない場所はなかつた。人の一人もゐない所へ行つてみたいな、さう考へて、歩いてみた。けれども、人は、どこにでもゐる。
 どうして、人のゐない所へ行きたくなるのだらうか。誰も自分に話しかけたり、邪魔したり、しないのに。人は、跫音をたてる。人は、喋る。子供は、泣いてゐる。ボールを投げてゐる。ハモニカを吹いてゐる。
 けれども、深山にも、鳥は啼き、渓流は、がう/\ととゞろいてゐる。森林も、風をはらんで、どよめき、海すらも、鳴りとゞろいてゐるのだ。なぜ、人のゐない所へ行かなければならないのだらう。
 隅田公園のベンチに休んで、汚い水面を眺めてゐる。ウオー。ウオー。ウオー。と、密林の野獣のやうに、叫びたくなる。ウオー。ウオー。ウオー。密林では、誰も返事をしてくれない。自分の声が、木魂になつて、帰つてくる。その声をきく。気を失ひさうな、ひろさ。変に喉の乾いたやうな、空々しい思索がある。自分は、今、ひとりぽつち。はつきり、分るのは、多分、それだけであらう。だが、公園のベンチにゐても、やつぱり、人は、ひとりぽつちに変りがない。石を拾つて投げる。コロ/\ころがり、子供の足にぶつかり、汚い水面へ落ちこむ。面白くも、ないのである。
 浅草へでゝ、知らない雑踏にまぎれる。人波につきあたり、人波をくゞりぬける。ふと、スリに就て、考へた。もし、自分が、スリであつたら。……
 レビューと映画を見て、家へ帰つた。
 その夜、波子は、自分のために涙を流す母の顔を、はじめて、見た。
 葉子の母、波子にとつては祖母に当る人であつたが、それは、女に珍しい豪放な人であつた。孫の波子を愛し、波子のために面白くもない宝塚へ屡々つきあつてくれて、後に、甚だファンになつたが、その祖母が、波子を評して、人に涙を見せない女、と常々言つてゐるといふ。
 涙を見せない女とは、どういふことだらう。あまり利巧な子でもないし、だいゝち、お掃除もしたがらない無性な子だが……つまり、祖母によれば、取柄といふのは、涙を見せないことだけなのだ。時々泣くことも、なきにしもあらず、であつた。それは、本人が、よく知つてゐる。祖母の評言も甚だ当にならないと波子は
前へ 次へ
全19ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング