いうことが考えられなかったのだろう。
 作者の名が考えられないということは、芸術を生む母胎としてはこの上もない清浄な母胎でしょう。彼らは自分の仕事に不満か満足のいずれかを味いつつ作り捨てていった。その出来栄えに自ら満足することが生きがいであった。こういう境地から名工が生れ育った場合、その作品は「一ツのチリすらもとどめない」ものになるでしょう。ヒダには現にそういう作品があるのです。そして作者に名がない如く、その作品の存在すらも殆ど知られておりません。作者の名が必要でない如く、その作品が世に知られて、国宝になる、というような考えを起す気風がヒダにはなかった。名匠たちはわが村や町の必要に応じて寺を作ったり仏像を作ったり細工物を彫ったりして必要をみたしてきた。必要に応じて作られたものが、今も昔ながらにその必要の役を果しているだけのことで、それがその必要以上の世間的な折紙をもとめるような考えが、作者同様に土地の人の気風にもなかったのである。
 だからヒダには今も各時代の名匠たちの名作が残っているということは、古美術の専門家すらも知らないのです。むろん私も知らなかった。だから私がヒダの旅にでたのは、ヒダのタクミに関係した目的も含まれていたが、それですらも彼らの隠れた名作に接することがあろうなどゝは夢想もせずに出発したのです。

          ★

 ヒダのタクミが奴隷として正式に徴用をうけはじめたのは、奈良朝時代から皇室の記録にでてきます。しかし彼らが帝都の建設に働いたのは、もっと古い時からだ。けれども、それは記録にはでてきません。しかし彼らの本当の活躍は現存する記録時代の以前にあったと思われますが、その時代には彼らは徴用工ではなかったのでしょう。なぜなら大和飛鳥へ進出してそこの王様を追いだして中原を定めたのはヒダの王様でありました。それが大国主《おおくにぬし》にも当るし、神武天皇にも当るし、崇神天皇にも当るし、ひょッとすると、欽明天皇にも当るのではないでしょうか。天照大神に当る方もこの一族でしょうが、その女の首長は神功皇后にも当り、推古女帝と持統女帝とを合せて過去の人物の行動に分ち与えた分身的神話でもあるらしくて、つまりその首長または女帝は同族の嫡流を亡して天下を定めた。それが今日の皇室の第一祖のようです。その時代は今から千三百年ぐらい昔です。天武持統両夫妻帝か、その前
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