のカンが最も新鮮な第一夜に昔ながらの土地の匂いを嗅ぎ当ててみたい、そう考えていたのだ。
 ところが、ドシャ降りである。岐阜駅の鉄道案内所の話では、下呂以外に、ヒダの小さな駅に旅館があるかどうか、たぶんないだろうという話である。ドシャ降りでなければ、まだしもデタラメに下車して当ってみて、民家へもぐりこむ方法を案じることも不可能ではない。ドシャ降りでは仕方がないから、下呂へ降りた。
 折からの土曜で旅館はたいがい満員らしかったが、予約した部屋がまだ一ツあいてるが、この汽車で予約の人が着かないからたぶん雨で来ないのだろうという次第で、水明館へすべりこむことができた。
 私はこの旅行に「ヒダを語る」というウスッペラな通俗案内書を一冊だけぶらさげて出かけた。ところがこの本は水明館の死んだ先代の著した本だそうだ。その未亡人がやってきて、
「その本はこの土地では手にはいらなくて、一冊ほしいと探していましたが、よくまアお持ちですこと」
 再版したいと思って探していたところだが、用がすんだら借してくれと云う。よろしい、と約束してきたが、旅行中に手帳をなくしたので、この本にメモをかきこんだから、まだ用が終らない。もう、じき終るでしょう。
 この水明館の先代というのはヒダ出身ではないそうだ。それで却ってヒダについて他国へ紹介したいような気持を起したのかも知れない。ヒダで生れてヒダで育った人というものは、ほとんど自分の国について人に語るべき多くの興味を持たないようだ。
 私は考えていた。ヒダの郷土史家の中に、ヒダ流の方法で郷土史を考えている人はないかと。――ヒダ流の方法というのは、ヒダ王朝は日本国史のタブーであり、それは完璧に隠されているが、ヒダに残った伝説をモトにしてヒダ流の国史を考えている人はないか、という意味である。しかし、そういう独特の史家はいなかったようだ。水明館の先代は、むろんそういう史家ではないし、元来が史家でもない。とりとめもない通俗案内書の一種にすぎないのである。
 私の部屋の係りは二人のヒダ生れの女中であった。その姉さん株の一人はまさにヒダの顔であった。他国でザラに見られる顔ではない。幾つかのコブがかたまって出来ている顔なのである。こういう顔はその後の旅中に男には三四見かけたけれども、女では彼女の顔が私の見た唯一のものであった。
「いつでしたか、ヒダの顔だと仰有《おっし
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