と思っています。この本の作者か、もしくは註釈者(平安末期の相慶子ではなくて、この本の書かれた直後の註釈者)は、本当の史実も知っていました。しかし、この本は時流に即して、現天皇家の定めた国史たる記紀の記述にしたがい、それに合せて法隆寺の縁起や聖徳太子及びその一族のカンタンな歴史を書き残しました。そして現支配者の国史をくつがえして書く自由は許されないので、その偽装の国史に即す限りに於て記紀の誤りを正しておいた。
 ところが、作者よりも註釈者の方がもッと大胆で、(実は同一人物かも知れません。かりに註釈者を設定したのかも知れない)たとえば、法隆寺蔵するところの繍帳縫著亀背上の文字を録したのちに、その文字の作者は更々実情を知らざるものである、と意味深重な註釈をつけているのです。そして、聖徳太子の死んだのは、その皇妃の死んだ二月二十一日の翌日である。それは金堂の釈迦像の光背の文字が示している通りである。ところが亀背上の文字は皇妃の死んだ日の翌日、推古三十一年二月二十二日に聖徳太子が死んだと書いている。(この太子の歿年は書紀も古事記も同じです)
 ところが註釈者の曰く、釈迦像の光背の文は皇妃の死の翌日に太子が死んだと書いてはいるが、皇妃の死の翌日[#「皇妃の死の翌日」に傍点]とあるだけで、決して同じ年[#「同じ年」に傍点]の翌日とは書いてない。つまり、太子はたしかに二月二十二日に死んでる。しかし、皇妃の死んだ年の二月二十二日ではないのだ、という実に注目すべき意味深重な暗示をなしているのです。
 この法王帝説という本の中で最も重大なのはこの註釈のくだりですよ。巷宜、註、蘇我也、という。これも意味深重な暗示らしい。このところでは、記紀の史実に従いながら、何事か重大な暗示をしようと努めており、その重大なカギがこの註釈のくだりに必ず隠されているように私は思う。私が日本の歴史を疑りはじめたのはここから出発しているのですが、この暗示からはまだ直接の解答をひきだすことができません。
 欽明天皇の時代に仏教が渡来した。この欽明天皇及びそれ以後五代にわたるヒダ王家の嫡流は皇居を大和に定めつつもヒダにも(今のミノか)居城か行宮があった。飛鳥寺というのは大和の飛鳥ではなくて今のミノの武儀郡あたりにあったんではないかね。聖徳太子の七大寺のうち定額寺(葛城氏に与えた)というのは、ミノか伊那であろう。物部守
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