。この作品の幕切れのところで、加山良造はとうとう昔の女を正式の女房にむかえることにして息子の兵太に打ちあけると、自分の恋の方は親父にせかされている兵太だが、その感情とはちっとも結びあわせずに、親父がそれで悦しいなら然うするがいいだろうと簡単に賛成する。親父の自分勝手と息子のへんちくりんな人生観に呆れかえった使用人の三平は、こりゃどうも旦那方のすることは、まるで分らん、というあたり、この空とぼけた中には作者の精一杯の人生観が飾りなく投げだされてあるのだろうと思われた。つつましくはあるが苛烈な作者の人生苦難が感じられるのである。私は面白く読んだ。
 太宰治氏の「逆行」。作者はこの作品を「傷」のもついたましい美しさのように思わせようとする。併し私はむしろ傷を労わるためにでっちあげた美しさのように思う。ボードレエルがのこしたような、傷の生々しい傷ましさから迸しりでたものとは違う。作者は自分をいたわりすぎていると私は思ったのだ。この作者は甚だ聡明である。このことに気付かない筈はないと思うが、知りすぎるために、却って潜在的に傷を遠距かり、労わろうとする不可抗力を受けるのであろうか。だがこの逃避的な美しさは我々の時代に始めて実をむすんだ一つのうら悲しい宿命であろう。このうら悲しい美しさを私は頭から否定したいとは思わぬ。だが、これを突き破って始まるところの文学を私はより多く期待するのだ。
 龍胆寺雄氏「アラッヂンのラムプ」。どんな架空な物語を書いても、作者が空想の中に生きていれば文句はない。そのとき空想は立派に作者の生活でありうる。ところがこの作品の空想の中には作者が呼吸していない。この物語の始めの方で、雲吉が沙漠の散歩から帰ってきて部屋へはいると、着物や髪の毛の中から沙漠の砂がパラパラとこぼれてくるというあたりは却々気の利いた精密さで、全篇の空想の中に作者が常にこれくらい快適に浸りきっていたならこの空想も救われたのである。だがこのほかの部分では全く空想の中に作者が浸っていないのだ。最後に空想がどうやら現実へからみついてきて作者は自己を語りはじめているのだが、この自己弁解が又極めて世俗的な鬱憤をはらしているにすぎないのはひどすぎる。
 川端康成氏の「浅草祭」。この月の分は「悲願維明」と「元日のシャツ」の二つの小品で後者の方は未完。中に「彼はなにか自らの白い肌に追はれるもののやうに、
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