ったりする。この悲願を真に正しく押しつめることは甚だ難いのだ。併しやがてこの悲願を正しく渡りきった向う側から新らしい文学が生まれてくるだろうと私は確信している。
「浅草祭」の中に、私と呼ぶ主人公が辻本という友人の源氏屋に誘われるままに街の女の家へあがる。十八という街の女と話を交し、次第に源氏屋口調になる辻本と面白くもない話を交わしたあとで、一向に気持の浮かない主人公は女を買うのは止め、辻本がこんなに金に困っているならこの家に茶代をおき、辻本には足賃をやり、彼と温いものでも食って別れようかと思うのだが、そんなことはわれわれ好みのつまらん見栄にすぎないという気がして、黙って三円の料金を出す、という件りがある。
この「われわれ好みのつまらん見栄」と作者がアッサリ片附けていることが、果してそう片付けていいものかどうか。この一見甚だ辛辣に古い衣を突き破っているように見えるこの作者の「からさ」が、実は甚だ好気分にこの「からさ」に溺れているのであって、この程度の「からさ」は危険ではあるが一向本質的に正しく的をついているとは考えられない。われわれ好みのつまらん見栄といい切ることが逆にこの作者の「からさ」の見栄だと言うことも出来ないことではないと思う。虚妄と真実との累々たるカラクリのあとに築かれた古い習慣を正しく突き破るためには、かように習慣的な「からさ」だけでは不足すぎると私は考える。一見浅薄に見る「あまさ」もやはり正体は複雑な虚妄と真実のカラクリによって掩い隠されているのだ。探究の方向が「からさ」であることは差支えないと思うが、その「からさ」が最後の深さのものであることを希望したい。
私の友人片山勝吉はその文学の発足のときから執拗にこの漠然たる悲願と取り組み、この漠然たる悲しさのみを極めて地道につつましく育てつづけてきた甚だ特異な作家のように考える。彼の日本文学の教養とその甚しい日本趣味とのため、人々は多く彼の懊悩の世界まで古臭いように考えがちであるが、彼の懊悩の世界は全く我々の時代まではなかったところのものである。彼の書く主人公は惚れないうちから諦めているというような、然しそんな尤もらしい恋愛事情なぞとは無関係に、もともと恐ろしい孤独感の中にいる。去年「紀元」に発表した「鋸の音貧し」という作品の中で、主人公は隣の部屋から洩れてくる愛すべき若夫婦者のなんでもない話声をきいてい
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