というより門弟で、一応才能の資格が前提されたツナガリであったろう。
 太宰の場合は、そうではなく、映画ファンと同じようで、こういうところは、芥川にも似たところがある。私はこれを彼らの肉体の虚弱からきたものと見るのである。
 彼らの文学は本来孤独の文学で、現世的、ファン的なものとツナガルところはない筈であるのに、つまり、彼らは、舞台の上のM・Cになりきる強靭さが欠けていて、その弱さを現世的におぎなうようになったのだろうと私は思う。
 結局は、それが、彼らを、死に追いやった。彼らが現世を突ッぱねていれば、彼らは、自殺はしなかった。自殺したかも、知れぬ。然し、ともかく、もっと強靭なM・Cとなり、さらに傑れた作品を書いたであろう。
 芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない。
 虚無というものは、思想ではないのである。人間そのものに附属した生理的な精神内容で、思想というものは、もっとバカな、オッチョコチョイなものだ。キリストは、思想でなく、人間そのものである。
 人間性(虚無は人間性の附属品だ)は永遠不変のものであり、人間一般のものであるが、個人という
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