、又ある時は、遠浅の沖へ沖へと進んでゆく喚声が遠近を明瞭に暗示しながら海風に送られてこの窓へ鳴りわたつて来たり……私は窓から頸を出して、ひねもす[#「ひねもす」に傍点]それを眺めてゐるのです。日が落ちると、緋奈子は疲労してこの部屋へ立ち戻つて来るのですが、楽しい遊びの続きのやうに、夜の部屋でも独り悦ばしげにはしやぎ[#「はしやぎ」に傍点]廻つて、私を眼中に置かないのです。
 今さら気取つても仕方のない話ですから、正直に打ち開けて断言しますが、私も実は緋奈子が羨しかつたのです。私も、この憂鬱な部屋を棄てて、子供達と一緒に、あんな風に遊びたかつた。しかし、さういふ思ひに駆られることからして、已に並ならぬ億劫な事柄でありますので、私はなるべく自発的に思惟を中絶して、靄だらけな昼寝を貪つたりすることが多かつたのです。それに私は、なぜだか、今更ノコノコと白日の下に顔を曝すのが気羞かしく思はれてならない気持もあつたのです。つまり彼等は――といつても、単に緋奈子や村の子供達に就てばかりではなく、いはば此の漁村全体の人と風景にわたつて――已にある種の密接な雰囲気がつくられてゐるのに、私だけ一人は其処にうらぶれたエトランヂェであるやうに考へられてならないからです。たとへば私が、初めて彼等の集団へ顔を突き出した場合の気まづい雰囲気を考へたなら、私といふみぢめなエトランヂェが、なんと気の毒に消えさうでありますことか。勿論、素朴な村人たちが、さうまであくどく[#「あくどく」に傍点]私を白眼視するだらうとは思はれないことですが、私としてはそんな場合、常にかういふ気まづい雰囲気を自分一人で創作して、その当座それを押し切つても無理に親しもうとする勇気は持てないのです。よしんば現実の安逸さが古沼程も退屈極りないものであるとしても、予想されたより豊富な安逸さを求めて、この「現実」を賭ける気持にはまづ滅多には成らないのです。これは甚だ余談ですが、ですから私は、「死」ぬことが嫌ひであります。たとへば「死」に、虹ほども豊富な色彩と休息が予約されるとしてからが、現実「生きてゐる」うへは、この現実の安逸を賭けて投機を試みる心になりませんのです。――そして、ありていに恥を言へば、この海風の通る部屋の中では、私は一人ぼつちの真昼を迎へると、部屋の片隅に抹殺し去られた私の海水着を秘かに取り出して、臆面もなく之を着込んでゐるのですが……流石にしかし、それを発見されないやうに、頸ばかり窓から突き延して、広い海原と浜に零《こぼ》れた人影のうごき[#「うごき」に傍点]を眺めてゐるのです。緋奈子は遊びに夢中ですから、私の窓を振り仰いで、其処に私の頸だけを見付け出すことは、一日の中にも極く稀な気紛れによることですが、しかしとにかく、一日に一度顔が会ふと、私はそれをキッカケにヒョイと頸を引つ込めて、その時ばつたり倒れた場所でその一日を暮すのです。
「緋奈子……緋奈子……緋奈子……緋奈子……」
 気がつくと、低いかぼそい不思議な声が、私の胎内からさう緋奈子を呼んでゐる……私が現実の緋奈子を呼ぶ理由はないのです。あれは実際|詐《いつわ》りなくウルサクテタマラナイ存在ですから。……そして私は、恐らく緋奈子の、その影を呼んでゐるのではないのですか。そして私も、恐らくは私も、また、叫ぶところの影であります。私のうらぶれた現身《うつしみ》に、影ほど好ましきものは無いのです。影は人の心であります、そして又、人のふるさと[#「ふるさと」に傍点]であります。饒舌な現身が愛慾のわづらはしさに憔悴し去るとき、沈黙な影はその素朴にして寛大な抱擁を差し投げるものであります。ただ黒い影法師ほど、深い慰めと深い反省の泉であるものは、この現世に無いのです。……さう言へば私は海原を歩く帆カケ舟の帆影を探したことがあるのです。海原のひたすらなる青へ静かに落ちた帆影は、美くしい影であらうと思はれたからです。はぢめ私の肉眼には、空のやうに、又海のやうに、帆カケ舟にもその影が見当らないのです。私はオペラグラスを取り出して、それからの毎日、窓を通る一つ一つの帆カケ舟を点検したのですが、帆影はつひに見出せなかつたのです。そして私は考へたのです、あれはあれでいい、空のやうに、又海のやうに、あれはあれ自身すでに一つの麗はしいふるさと[#「ふるさと」に傍点]だから……。
 この漁村に人死がありました。私の窓の、目の下のなだらかな銀色に、村の少年が溺死体となつて発見されたのです。無論あかるい真昼間の出来事で、赤熱した砂浜が、ひろくピカピカと煌《きらめ》いてゐたのです。私はその頃部屋の中に寝倒れてゐたのですが、遠い窓の下から風に送られてくる不安げなざわめき[#「ざわめき」に傍点]に、ふと頸を出したとき、腹部の異状に膨脹した少年の溺死体は、その両
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