絶望が発狂寸前の冷たさで生きて光っているだけだ。
伊沢の小屋は幸い四方がアパートだの気違いだの仕立屋などの二階屋でとりかこまれていたので、近隣の家は窓ガラスがわれ屋根の傷んだ家もあったが、彼の小屋のみガラスに罅《ひび》すらもはいらなかった。ただ豚小屋の前の畑に血だらけの防空頭巾が落ちてきたばかりであった。押入の中で、伊沢の目だけが光っていた。彼は見た。白痴の顔を。虚空をつかむその絶望の苦悶を。
ああ人間には理智がある。如何なる時にも尚いくらかの抑制や抵抗は影をとどめているものだ。その影ほどの理智も抑制も抵抗もないということが、これほどあさましいものだとは! 女の顔と全身にただ死の窓へひらかれた恐怖と苦悶が凝りついていた。苦悶は動き苦悶はもがき、そして苦悶が一滴の涙を落している。もし犬の眼が涙を流すなら犬が笑うと同様に醜怪きわまるものであろう。影すらも理智のない涙とは、これほども醜悪なものだとは! 爆撃のさ中に於て四五歳乃至六七歳の幼児達は奇妙に泣かないものである。彼等の心臓は波のような動悸をうち、彼等の言葉は失われ、異様な目を大きく見開いているだけだ。全身に生きているのは目だけであ
前へ
次へ
全49ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング