している。誰も消火に手伝う者はいなかった。
 ねむくなったと女が言い、私疲れたのとか、足が痛いのとか、目も痛いのとかの呟きのうち三つに一つぐらいは私ねむりたいの、と言った。ねむるがいいさ、と伊沢は女を蒲団にくるんでやり、煙草に火をつけた。何本目かの煙草を吸っているうちに、遠く彼方に解除の警報がなり、数人の巡査が麦畑の中を歩いて解除を知らせていた。彼等の声は一様につぶれ、人間の声のようではなかった。蒲田署管内の者は矢口国民学校が焼け残ったから集れ、とふれている。人々が畑の畝《うね》から起き上り、国道へ下りた。国道は再び人の波だった。然し、伊沢は動かなかった。彼の前にも巡査がきた。
「その人は何かね。怪我をしたのかね」
「いいえ、疲れて、ねているのです」
「矢口国民学校を知っているかね」
「ええ、一休みして、あとから行きます」
「勇気をだしたまえ。これしきのことに」
 巡査の声はもう続かなかった。巡査の姿は消え去り、雑木林の中にはとうとう二人の人間だけが残された。二人の人間だけが――けれども女は矢張りただ一つの肉塊にすぎないではないか。女はぐっすりねむっていた。凡《すべ》ての人々が今焼跡の煙の中を歩いている。全ての人々が家を失い、そして皆な歩いている。眠りのことを考えてすらいないであろう。今眠ることができるのは、死んだ人間とこの女だけだ。死んだ人間は再び目覚めることがないが、この女はやがて目覚め、そして目覚めることによって眠りこけた肉塊に何物を附け加えることも有り得ないのだ。女は微《かす》かであるが今まで聞き覚えのない鼾《いびき》声をたてていた。それは豚の鳴声に似ていた。まったくこの女自体が豚そのものだと伊沢は思った。そして彼は子供の頃の小さな記憶の断片をふと思いだしていた。一人の餓鬼大将の命令で十何人かの子供たちが仔豚を追いまわしていた。追いつめて、餓鬼大将はジャックナイフでいくらかの豚の尻肉を切りとった。豚は痛そうな顔もせず、特別の鳴声もたてなかった。尻の肉を切りとられたことも知らないように、ただ逃げまわっているだけだった。伊沢は米軍が上陸して重砲弾が八方に唸りコンクリートのビルが吹きとび、頭上に米機が急降下して機銃掃射を加える下で、土煙りと崩れたビルと穴の間を転げまわって逃げ歩いている自分と女のことを考えていた。崩れたコンクリートの蔭で、女が一人の男に押えつけられ、男は女をねじ倒して、肉体の行為に耽《ふけ》りながら、男は女の尻の肉をむしりとって食べている。女の尻の肉はだんだん少くなるが、女は肉慾のことを考えているだけだった。
 明方に近づくと冷えはじめて、伊沢は冬の外套《がいとう》もきていたし厚いジャケツもきているのだが、寒気が堪えがたかった。下の麦畑のふちの諸方には尚燃えつづけている一面の火の原があった。そこまで行って煖をとりたいと思ったが、女が目を覚すと困るので、伊沢は身動きができなかった。女の目を覚すのがなぜか堪えられぬ思いがしていた。
 女の眠りこけているうちに女を置いて立去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。微塵《みじん》の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。生きるための、明日の希望がないからだった。明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何か希望があるのだろうか。何をたよりに生きるのだろう。どこに住む家があるのだか、眠る穴ぼこがあるのだか、それすらも分りはしなかった。米軍が上陸し、天地にあらゆる破壊が起り、その戦争の破壊の巨大な愛情が、すべてを裁いてくれるだろう。考えることもなくなっていた。
 夜が白んできたら、女を起して焼跡の方には見向きもせず、ともかくねぐらを探して、なるべく遠い停車場をめざして歩きだすことにしようと伊沢は考えていた。電車や汽車は動くだろうか。停車場の周囲の枕木の垣根にもたれて休んでいるとき、今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。あまり今朝が寒すぎるからであった。



底本:「坂口安吾全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1990(平成2)年3月27日第1刷発行
底本の親本:「白痴」中央公論社
   1947(昭和22)年5月10日発行
初出:「新潮 第四十三巻第六号」
   1946(昭和21)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:伊藤時也
2005年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(h
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング