次第に近づいていた。
 仕立屋夫婦は用心深い人達で、常から防空壕を荷物用に造ってあり目張りの泥も用意しておき、万事手順通りに防空壕に荷物をつめこみ目張りをぬり、その又上へ畑の土もかけ終っていた。この火じゃとても駄目ですね。仕立屋は昔の火消しの装束で腕組みをして火の手を眺めていた。消せったって、これじゃ無理だ。あたしゃもう逃げますよ。煙にまかれて死んでみても始まらねえや、仕立屋はリヤカーに一山の荷物をつみこんでおり、先生、いっしょに引上げましょう。伊沢はそのとき、騒々しいほど複雑な恐怖感に襲われた。彼の身体は仕立屋と一緒に滑りかけているのであったが、身体の動きをふりきるような一つの心の抵抗で滑りを止めると、心の中の一角から張りさけるような悲鳴の声が同時に起ったような気がした。この一瞬の遅延の為に焼けて死ぬ、彼は殆ど恐怖のために放心したが、再びともかく自然によろめきだすような身体の滑りをこらえていた。
「僕はね、ともかく、もうちょっと、残りますよ。僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸人だから、命のとことんの所で自分の姿を見凝《みつ》め得るような機会には、そのとことんの所で最後の取引をしてみることを要求されているのだ。僕は逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけに行かないのだ。もうあなた方は逃げて下さい。早く、早く、一瞬間が全てを手遅れにしてしまう」
 早く、早く。一瞬間が全てを手遅れに。全てとは、それは伊沢自身の命のことだ。早く早く、それは仕立屋をせきたてる声ではなくて、彼自身が一瞬も早く逃げたい為の声だった。彼がこの場所を逃げだすためには、あたりの人々がみんな立去った後でなければならないのだ。さもなければ、白痴の姿を見られてしまう。
 じゃ先生、お大事に。リヤカーをひっぱりだすと仕立屋も慌てていた。リヤカーは路地の角々にぶつかりながら立去った。それがこの路地の住人達の最後に逃げ去る姿であった。岩を洗う怒濤の無限の音のような、屋根を打つ高射砲の無数の破片の無限の落下の音のような、休止と高低の何もないザアザアという無気味な音が無限に連続しているのだが、それが府道を流れている避難民達の一かたまりの跫音なのだ。高射砲の音などはもう間が抜けて、跫音の流れの中に奇妙な命がこもっていた。高低と休止のない奇怪な音の無限の流れを世の何人が跫音と判断し得よう。天地はただ無数の音響でいっぱいだった。米機の爆音、高射砲、落下音、爆発の音響、跫音、屋根を打つ弾片、けれども伊沢の身辺の何十米かの周囲だけは赤い天地のまんなかでともかく小さな闇をつくり、全然ひっそりしているのだった。変てこな静寂の厚みと、気の違いそうな孤独の厚みがとっぷり四周をつつんでいる。もう三十秒、もう十秒だけ待とう。なぜ、そして誰が命令しているのだか、どうしてそれに従わねばならないのだか、伊沢は気違いになりそうだった。突然、もだえ、泣き喚いて盲目的に走りだしそうだった。
 そのとき鼓膜の中を掻き廻すような落下音が頭の真上へ落ちてきた。夢中に伏せると、頭上で音響は突然消え失せ、嘘のような静寂が再び四周に戻っている。やれやれ、脅かしやがる。伊沢はゆっくり起き上って、胸や膝の土を払った。顔をあげると、気違いの家が火を吹いている。何だい、とうとう落ちたのか、彼は奇妙に落着いていた。気がつくと、その左右の家も、すぐ目の前のアパートも火をふきだしているのだ。伊沢は家の中へとびこんだ。押入の戸をはねとばして(実際それは外れて飛んでバタバタと倒れた)白痴の女を抱くように蒲団をかぶって走りでた。それから一分間ぐらいのことが全然夢中で分らなかった。路地の出口に近づいたとき、又、音響が頭上めがけて落ちてきた。伏せから起上ると、路地の出口の煙草屋も火を吹き、向いの家では仏壇の中から火が吹きだしているのが見えた。路地をでて振りかえると、仕立屋も火を吹きはじめ、どうやら伊沢の小屋も燃えはじめているようだった。
 四周は全くの火の海で府道の上には避難民の姿もすくなく、火の粉がとびかい舞い狂っているばかり、もう駄目だと伊沢は思った。十字路へくると、ここから大変な混雑で、あらゆる人々がただ一方をめざしている。その方向がいちばん火の手が遠いのだ。そこはもう道ではなくて、人間と荷物の悲鳴の重りあった流れにすぎず、押しあいへしあい突き進み踏み越え押し流され、落下音が頭上にせまると、流れは一時に地上に伏して不思議にぴったり止まってしまい、何人かの男だけが流れの上を踏みつけて駆け去るのだが、流れの大半の人々は荷物と子供と女と老人の連れがあり、呼びかわし立ち止り戻り突き当りはねとばされ、そして火の手はすぐ道の左右にせまっていた。小さな十字路へきた。流れの全部がここでも一方をめざしているのは矢張りそっちが火の手が最も遠
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