。オツネは大川がねこんだのにホッと一安心、鬼女の能面を外して卓上へおいて部屋をでた。
 オツネはメクラながらもカンのよいのが自慢だから、行きつけの家や旅館に行ったときには女中たちに案内されるのが何よりキライだ。
「私はカンがいいのよ。一人で大丈夫」
 どこへ行ってもこう云わないと気がすまない。もちろんどこの女中もそれがキマリになっているから案内に立とうとする者もいなくなっていた。乃田家でもそうだ。壁に手さぐりで進むから跫音もなく唐紙をあける。すると奥の部屋から奥さんの声で、
「オツネサンかい」
「そうです」
「ちょっとそこで待っててね」
「ハイ」
 誰か人がいるらしい。奥さんはあまり人にきこえないように声を低くしかし力をこめ、
「あなたのあつかましさにはもう我慢できなくなりました。今までに一千万円はゆすっているのですよ。私ももう六十七にもなりましたから名誉ぐらいどうなってもかまいません。もう絶対にお金はあげませんから私の秘密をふれまわったがいいでしょう。第一、窓の外から夜中に戸を叩いてゆするなぞとは何事ですか。さっさと行きなさい」
「あとで後悔しますよ」
 窓の外でふくみ笑いしてこう捨てゼリフを云う男の声がきこえた。奥さんが窓の戸をしめたので男は立ち去ったらしい。
 ――大川さんではないようだ、とオツネは思った。彼は熟睡しているし、男の声は低くてよくも聞きとれないぐらいだったが、大川の声とは違っていたようだ。来客は一人の様子であったが、この邸内にいる他の男と云えば、それは息子の浩之介か庭番の爺やだけだ。浩之介は南方の戦場から足に負傷して戻ってきてビッコであった。この二人にはオツネはほとんどナジミがなかった。奥さんはオツネを奥の部屋へよびいれて、
「とんだところを聞かれましたね。このことはくれぐれも人に話してはいけませんよ」
「ハイ。決して云いません」
「大川さんはおやすみですか」
「ハイ。高イビキでおやすみでした」
「そう」
 それからオツネは奥さんをもんで出たのは十一時半ごろであった。いつもならその時刻だとまた行きつけの旅館へ顔を出してみるところだが、この日は大川をもんで疲れたので師匠の家へ戻って、
「今夜の乃田さんは鬼女の面の旦那だからとても疲れたんです。やすませて下さい」
 客の席ではさすがにこんな話まではしないのだが、師匠の家ではずいぶんひどい話もうちあけて
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