、原稿用紙と私との関係などよりはるかに深刻なものに相違ない。尤も我々の原稿用紙もいつたんこれに小説が書き綴られたときには、これは又農民の土にもまさるいのちが籠るのであるが、我々の小説は一応無限であり、又明日の又来年の小説が有りうるのに比べて土はもつとかけがへのない意味があり、軽妙なところがなくて鈍重な重量がこもつてゐる。
土と農民との関係は大化改新以来今日まで殆ど変化といふものがなく続いてをり、土地の国有が行はれ、農民が土の所有権と分離して単に耕作する労働者とならない限り、この関係に本質的な変化は起らぬ。農の根本は農民の土への愛着によるもので、土地の私有を離れて農業は考へられぬ、といふのは過去と現在の慣習的な生活感情に捉はれすぎてゐるので、むしろ土地の私有といふことが改まらぬ限り農村に本質的な変化や進化が起らないといふことが考へられるほどだ。
農村自体の生活感情や考への在り方などが、たとへそれがどのやうに根強く見えやうとも、その根強さのために正しいものだの絶対のものだのと考へたら大間違ひだ。江戸時代の田中丘隅といふ農政家が農民の頑迷な保守性を嘆じて「正法のことといへども新規のことはたやすく得心せず、其国風其他ならはしに浸みて他の流を用ひず」と言ひ、更に嘆じて「家業の耕作、田地のこしらへ、苗代より始めて一切の種物下し様に至るまで、ただ古来より仕来る事を用ひて、善といへども、悪を改めず」と嘆息してゐる。
このことは遠い古代からすでにさうで、平安朝の昔、大伴今人といふ国守が山を穿つて大渠をひらいたとき、百姓はこれを無役無謀な工事だといつて嗷々《ごうごう》と批難したが、工事を終りその甚大な利益を見るに及んで嘆賞して伴渠と名づけて徳をたたへたといふ。又、淳和《じゅんな》天皇の頃、美濃の国守の藤原高房といふ人があつて、安八郡のさる池の堤がこはれて水がたまらず潅漑の用を果してをらぬのを見て、修築を企てた。すると土民は口をそろへて、この池は神様が水を嫌つてゐるのだから水を溜めない方がいいのだと騒ぎだしたが、神様が怒つて殺すといふなら俺はいつでも殺されてやるさ、と高房は断乎として堤を築かせたところ、工事終つて潅漑の便利に驚いた土民は改めて嘆賞したといふ。平安朝の昔からこの式で、今に至るもなほ、農民は常に今居る現実を善とし真とし美とし、これを改良することを不善とする。改良の精神自
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