きとつた。
 翌朝になつて小坊主が門前を掃きにくると牛が一匹しよんぼりしてゐる。別に縄につながれてもゐないのに、お寺の門前にしよんぼりして動かないから和尚に告げた。ああ、さうか、よしよし、それではゆふべ死んだものとみえる。それはウチの牛だから今日から野良に使ふがよい。オヤ、さうですか。和尚さまが買つておいでになりましたのですか。マア、さうぢや。どれ、ひとつ、見てやらう、と門前へ出てみると、大変大きなおとなしさうな赤牛だから、うむ、これなら申分なからう、野良へつれてゆきなさい、と寺男をよんで引渡した。
 ところが、この寺男がなんとも牛使ひの荒つぽい男で、すこし怠けても情け容赦なくピシピシ打つ。山へ行けば背へつめるだけの木をつませて、それで疲れてちよつと立止つただけでも大きな丸太で力一ぱいブンなぐる。ゆつくり草もたべさせず、縄をつかんで鼻をぐいぐいねぢりまはして引廻すものだから辛いこと悲しいこと、それでも五年間は辛抱した。そして、たうとう、たまらなくなつてしまつた。
 その晩から、和尚は毎晩のやうに、夢の中で必ず牛に蹴とばされる。どうやらスヤスヤ寝ついたと思ふと、どこからともなく牛がニューとでてくるのだが、ニューとでてくる、アッと思ふともうダメなので、逃げる力に逃げられず追ひつめられて、そのときキンタマをいやといふほど蹴とばされるのである。その痛いこと、全身ただ脂の汗、天地くらむ、ムムム……蹴られぬさきに蹴られる場所も痛さも分るその瞬間の絶望がなんともつらい。
 これが毎晩々々のことだ。和尚もいまいましくて仕方がない。夢のことだから別にキンタマが腫れあがりもしないけれども、憎らしいことだから、ある日牛を見に野良へでると、牛は寺男にひき廻されておとなしく働いてをり、和尚を認めると、急にしやくりあげてポロポロと泣きだした。それが如何にも悲しげに気の毒な様子であるから、和尚も不愍《ふびん》になつて、まだ三年あるのに、もつたいないことだと思つたが、毎晩キンタマを蹴られるのも迷惑な話だから、まア、このへんで勘弁してやるのも功徳といふものだらう、と考へた。
「まだ三年もあるのだが、見れば涙など流して不愍な様子だから、特別に慈悲をしてやらう。こんな慈悲といふものは、よくよく果報な者でないと受けられるものではないが、それといふのもお前の運がよかつたのだから、幸せを忘れぬがよい。さア、好
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