はスパナーを手にとって、ジッと見ていたが、次第に目が光った。そして、云った。
「あんた、下の主人を狙っているのね」
「バカ。オレは人を狙うようなグレン隊と違うんだ。ちかごろ物騒だから、用心のために持って歩いてるのだ」
「フン。私も考えていたわ。誰かが下の主人を狙うと思っていたの。どうせここの常連はタダモノじゃアないからね。第一、下の人は握りすぎてるよ。貸し売りせずにこの商売をやりぬくつもりなんですもの。そして、本当にやりぬいてるものね。私にムリにやりぬかせるのよ。そのために、私だって、イヤなお客にも変なサービスしなきゃアならないでしょう、しぼるだけしぼって、握りしめてるんだから、それは狙われるのが当り前よ。誰かが狙わなきゃア、おかしいわよ。でもね。まさか、あんたが最初に狙うとは思わなかったわ。人は見かけによらないわね」
「よせやい。オレは立派な会社勤めがあってよ、まともの収入が月々五万以上もある人間なんだ。終戦後、小さいながらも、自分の家というものを建てている人間なんだぜ。ここへ飲みにくるほかの常連とは、はばかりながら種類がちがってらアな。オレがスパナーを持ってるのは、右平の奴がいつ襲ってきやがるか分りゃしないからさ」
「たのむわよ。下の人を殺《や》らないでよ。イヤな奴だけど、こうして同居して、働いてるんだからね。血の海の中に、腐った魚みたいに目の玉とびだしてさ。なぐり殺されてんの、見たくないわよ。おお、ブルブル」
「おい。ヤなこと言うない」
「だってさ。私、こわいわよ。男は、みんな、こわい。何かのハズミに、思いきったことをやるわね。それはね、お金につまって、狙うのはいいけれど、ちょッとでも顔見知りの人はやらない方がいいわよ。いくらイヤな奴で、握ってるのが分ってるからとはいえ、こうして私がねてる下の人でしょう。私、イヤだよ。ギャアーなんて悲鳴に、目をさましちゃ、やりきれやしないよ。おお、こわいね」
 しかし、その後も、グズ弁は身からスパナーを放さなかった。
 するとミヤ子は多くの常連が飲んでる前で、
「この人、スパナーを持ッてんのよ。身から、放したことがないわよ」
 笑いながら、ズケズケ云った。グズ弁はてれて、赤くなり、
「オレは運転手だから、自動車強盗の用心しなきゃアならない。オチオチできない商売はつらいよ」
 しかし、右平の顔色が変ったのをグズ弁は見逃さなかった。ミヤ子は笑顔をそむけて満足そうであった。
「なんで、あんなことを云った?」
 あとでグズ弁がミヤ子をなじると、
「だってさ。私、心配だからさ。あんた、下の夫婦を狙ってるから、怖いのよ。ああ云っとけば、あんたも、うっかり、スパナーで下の夫婦を殴り殺すわけにもいかないでしょうね。後生だから、そればかりはよしてよ。私だって、寝ざめが悪いわよ」
 ミヤ子は蒼い顔をひきつらせて、もう我慢できないという見幕で、云った。

          ★

 その時から一月ちかい月日がすぎた。
 その夜の恋人はグズ弁であった。その晩はお客が殆どなかったので、グズ弁は店の一定の売上げのため、ミヤ子にたのまれて、多量にのみすぎた。その晩に限らず、不景気のときは、運の悪いお客が他のお客のぶんを強いられるのはこの店の習慣的な商法であった。
 グズ弁は暁方、目をさました。ノドが焼けるように乾いている。
 昨晩はのみすぎたことを自然に思いだした。殆ど記憶しないぐらい飲みすぎてしまったのである。お客が大そう少かったし、その代りグズ弁がたんまり飲んでくれたので、十一時ごろにはもう店をしめて、グズ弁は屋根裏へあがった。すると、そのとき、誰かが来たのをグズ弁は思いだした。
 もうカンバンにしたから、と下の婆さんがコトワリを云いにでたようだ。けれども、もつれているようなので、ミヤ子が立って、
「ちょッと見てくるわね」
「右平だな」
「ちがうでしょ」
「カンバンにしとけよ」
「ええ、そうするわ」
 ミヤ子は屋根裏から降りた。まもなく下は静かになり、ミヤ子は戻ってきた。
 右平ではなかったな、とグズ弁は思った。右平なら、金廻りがよいから、カンバンにしたあとでも、店をあけて飲ませる。泊りのお客を屋根裏へあげたあとでも、右平には飲ませるのが普通で、その間は屋根裏のお客は放ッぽらかしにされている。グズ弁はそういう扱いをうけたのが口惜しくて、自分もわざとカンバンすぎを狙ってムリを云ったら、やっぱり飲ませてくれた。それで気をよくしたようなこともあったのである。
 だから、昨晩のような不景気なときなら、第一、下の夫婦がグズグズしてやしない。すぐと右平を店内へ入れて、ミヤ子をよんで、酌をさせるにきまってるのだ。だから、たぶん、右平ではなかったはずだ。グズ弁はそんなことを次第に思いだした。
 グズ弁はノドが焼けつくように乾いて
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