いふ妥協的な生き方が時代思潮となつてきた。家康はこの時代思潮の寵児であつたが、自らかかる思潮の先達をなした人であり、巧みに時代を誘導、人心をおさめる天才的な手腕があつた。
君臣仁義は徳川時代に完成した武士道であつた。要するに、平和を保つ思想に発した武士道で、実戦に即応したものではない。否、戦略の立場からは自縄自縛の障りとなり、戦勝には縁の遠い保守的なものだ。実戦の奇略狡智は葬り去られ、一騎打や蛮勇が謳歌される。本多正信の智略よりも大久保彦左衛門の猪突猛進が武士の正道と見られるやうになつてしまつた。信長の精神は全く死滅したのである。
剣道に於ても形式主義の柳生流が全盛となり、勝負第一主義、必勝必殺主義の宮本武蔵の剣法は葬り去られる。
十年ほど以前、郷里の祭礼で、火縄銃の射撃を見た。発射の反動で、ダ、ダ、と二歩退く。肩の当て方に狂ひがあると、その骨を傷害する由であつたが、物々しい型が出来てゐて、万事が徳川流、活花の作法のやうに遅々たるもので、実戦の役に立つとは思はれぬ。忽ち手もとへ飛びこまれて殺されてしまふに極つてゐる。形骸のみあつて実質なく、万事に物々しい極意書風の外貌を愛すけれども、実質を忘れたのが徳川流の本領であつた。
かうして徳川流の兵法談議がほぼ完成を見た頃に、島原の乱が起つたのである。
一揆軍は三万七千、そのうちに数十名の浪人が加つてゐたが、大部分は農民で、その半数は女と子供であつた。けれども彼らには鉄砲があつた。鉄砲の使用は武士と農民の武力の差を失はせる。家康は之を知つて領内農民の鉄砲私有を禁じたが、徳川流の兵法家はすでにこのことを知らない。百姓如き一ひねりだと弾丸の前へとびだして大敗北を喫した。
一揆の起つた松倉藩では領内に鳥銃の自由使用を許してゐたので、農民の中には鉄砲|手練《てだれ》の者が少くなかつた。のみならず、松倉豊後はルソン遠征をもくろんでゐて、家臣を商人に変装させてルソンに送り地理風俗を研究する、一方、三千挺の鉄砲弾薬を用意したので、小藩ながら類例のない鉄砲を貯蔵してゐた。この口之津の鉄砲庫を一揆軍に占領されてしまつたのだ。
又、三会村に金作といふ鉄砲打の名人があつた。針を吊して射落す手練の者で「懸針の金作」とよばれてゐたが、一揆と同時に一村の農民をひきつれ、お手伝ひに参上しました、私共は一揆に反対の者共でございます、と言つて
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