たてて、得々としている。そのくせ、タウトの講演も、アンドレ・ジッドの講演も聴きに行きはしないのである。そうして、ネオン・サインの陰を酔っ払ってよろめきまわり、電髪嬢を肴《さかな》にしてインチキ・ウイスキーを呷《あお》っている。呆れ果てた奴等である。
 日本本来の伝統に認識も持たないばかりか、その欧米の猿真似に至っては体《たい》をなさず、美の片鱗《へんりん》をとどめず、全然インチキそのものである。ゲーリー・クーパーは満員客止めの盛況だが、梅若万三郎は数える程しか客が来ない。かかる文化人というものは、貧困そのものではないか。
 然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距《へだた》りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精
前へ 次へ
全47ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング