しても肯定する真宗の寺域が忽ち俗臭芬々とするのも当然である。
 然しながら、真宗の寺(京都の両本願寺)は、古来孤独な思想を暗示してきた寺院建築の様式をそのままかりて、世俗生活を肯定する自家の思想に応用しようとしているから、落着がなく、俗悪である。俗悪なるべきものが俗悪であるのは一向に差支えがないのだが、要は、ユニックな俗悪ぶりが必要だということである。
 京都という所は、寺だらけ、名所旧蹟だらけで、二三丁歩くごとに大きな寺域や神域に突き当る。一週間ぐらい滞在のつもりなら、目的をきめて歩くよりも、ただ出鱈目《でたらめ》に足の向く方へ歩くのがいい。次から次へ由緒ありげなものが現れ、いくらか心を惹かれたら、名前をきいたり、丁寧に見たりすればいい。狭い街だから、隅から隅まで歩いても、大したことはない。僕は、そういう風にして、時々、歩いた。深草から醍醐《だいご》、小野の里、山科《やましな》へ通う峠の路も歩いたし、市街ときては、何処を歩いても迷う心配のない街だから、伏見から歩きはじめて、夕方、北野の天神様にぶつかって慌てたことがあった。だが、僕が街へでる時は、歓楽をもとめるためか、孤独をもとめるた
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