無いのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人には無いのである。『三国志』に於ける憎悪、『チャタレイ夫人の恋人』に於ける憎悪、血に飢え、八ツ裂《ざき》にしても尚あき足りぬという憎しみは日本人には殆んどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。凡《およ》そ仇討にふさわしくない自分達であることを、恐らく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかく、せいぜい「食いつきそうな」眼付ぐらいが限界なのである。
伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような欺瞞《ぎまん》が隠されている。凡そ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、恰《あたか》も生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成立たない。外国に於て行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に最もふさわしいことも有り得るし、日本に於て行われて、外国には行われなかった習慣が、実は外国人にふさわしいことも有り得るのだ。模倣ではなく、発見だ。ゲーテがシェクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書きあげたように、個性を尊重する芸術に於てすら、模倣から発見への過程は最も屡々《しばしば》行われる。インスピレーションは、多く模倣の精神から出発して、発見によって結実する。
キモノとは何ぞや? 洋服との交流が千年ばかり遅かっただけだ。そうして、限られた手法以外に、新らたな発明を暗示する別の手法が与えられなかっただけである。日本人の貧弱な体躯が特にキモノを生みだしたのではない。日本人にはキモノのみが美しいわけでもない。外国の恰幅《かっぷく》のよい男達の和服姿が、我々よりも立派に見えるに極っている。
小学生の頃、万代橋《ばんだいばし》という信濃川の河口にかかっている木橋がとりこわされて、川幅を半分に埋めたて鉄橋にするというので、長い期間、悲しい思いをしたことがあった。日本一の木橋がなくなり、川幅が狭くなって、自分の誇りがなくなることが、身を切られる切なさであったのだ。その不思議な悲しみ方が今では夢のような思い出だ。このような悲しみ方は、成人するにつれ、又、その物との交渉が成人につれて深まりながら、却《かえ》って薄れる一方であった。そうして、今では、木橋が鉄橋に代り、川幅の狭められたことが、悲しくないばかりか、極めて当然だと考える。然し、このような変化は、僕のみではないだろう。多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新らしい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである。
タウトが東京で講演の時、聴衆の八九割は学生で、あとの一二割が建築家であったそうだ。東京のあらゆる建築専門家に案内状を発送して、尚そのような結果であった。ヨーロッパでは決してこのようなことは有り得ないそうだ。常に八九割が建築家で、一二割が都市の文化に関心を持つ市長とか町長という名誉職の人々であり、学生などの割りこむ余地はない筈だ、と言うのである。
僕は建築界のことに就ては不案内だが、例を文学にとって考えても、たとえばアンドレ・ジッドの講演が東京で行われたにしても、小説家の九割ぐらいは聴きに行きはしないだろう。そうして、矢張り、聴衆の八九割は学生で、おまけに、学生の三割ぐらいは、女学生かも知れないのだ。僕が仏教科の生徒の頃、フランスだのイギリスの仏教学者の講演会に行ってみると、坊主だらけの日本のくせに、聴衆の全部が学生だった。尤も坊主の卵なのだろう。
日本の文化人が怠慢なのかも知れないが、西洋の文化人が「社交的に」勤勉なせいでもあるのだろう。社交的に勤勉なのは必ずしも勤勉ではなく、社交的に怠慢なのは必ずしも怠慢ではない。勤勉、怠慢はとにかくとして、日本の文化人はまったく困った代物《しろもの》だ。桂離宮も見たことがなく、竹田も玉泉も鉄斎も知らず、茶の湯も知らない。小堀遠州などと言えば、建築家だか、造庭家だか、大名だか、茶人だか、もしかすると忍術使いの家元じゃなかったかね、などと言う奴がある。故郷の古い建築を叩き毀《こわ》して、出来損いの洋式バラックを
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