ごとの体当り。鍵はかゝつて家康と利家両名の動きの果にかゝつてゐることが分るだけ。その両名に秘密をつげて、天下の成行をひきだすことと、そのハンドルを自分が握らねばならないことが分つてゐるだけであつた。
 先づ家康が誰よりも先に覚悟をきめた。家康はびつくりすると忽ち面色変り声が喉につかへて出なくなるほどの小心者で、それが五十の年になつてもどうにもならない度胸のない性質だつたが、落付をとりもどして度胸をきめ直すと、今度は最後の生死を賭けて動きだすことのできる金鉄決意の男と成りうるのであつた。年歯三十、彼は命をはつて信玄に負けた、四十にしてふてくされ小牧山で秀吉を破つたが外交の策略に負け、その時より幾星霜、他意のない秀吉の番頭、穏健着実、顔色を変へねばならぬ立場などからフッツリ縁を切つてゐる。その穏健な影をめぐつて秀吉のひとり妄執果もない断末魔の足掻《あが》き。機会は自らその窓をひらき、そして家康をよんでゐた。家康は先づ時に乗り、そして生死の覚悟をきめた。
 彼はたゞ、生死の覚悟をかためることが大事であり、その一線を越したが最後鼻唄まじりで地獄の道をのし歩く頭ぬけて太々《ふてぶて》しい男であつた。
 彼は先づ誓約を無視して諸大名と私婚をはかり、勢力拡張にのりだす。あつちこつちの娘どもを駆り集めて養女とし、これを諸侯にめあはせる算段で、如水の息子の黒田長政の如きはかねての女房(蜂須賀の娘)を離縁して家康の養女を貰ふといふ御念の入つた昵懇ぶり、これも如水の指金《さしがね》だ。もとより四方に反撥は起り、これは家康覚悟の前。それは直ちに天下二分、大戦乱の危険をはらんでゐるのであつたが、家康は屁でもないやうな空とぼけた顔、おや/\さうかね、成行きの勝手放題の曲折にまかせ流れの上にねころんで最後の時をはかつてゐる。
 前田利家は怒つた。そして家康と戦ふ覚悟をきめた。彼は秀吉と足軽時代からの親友で、共々に助け合つて立身出世、秀吉の遺言を受けて秀頼の天下安穏、命にかけても友情をまもりぬかうと覚悟をかためてゐる。彼の目安は友情であり、その保守的な平和愛好癖であり、必ずしも真実の正義派ではなかつた。彼は理知家ではなく、常識家で、豊臣の天下といふたゞ現実の現象を守らうといふ穏健な保守派。これを天下の正義でござると押つけられては家康も迷惑だつたが、利家はその常識と刺違へて死ぬだけの覚悟をもつた男であつた。利家は秀頼の幼小が家康の野心のつけこむ禍根であると思つてゐたが、実際は、豊臣家の世襲支配を自然の流れとするだけの国内制度、社会組織が完備せられてゐなかつたのだ。秀吉は朝鮮遠征などといふ下らぬことにかけづらひ国力を消耗し、豊臣家の世襲支配を可能にする国内整備の完成を放擲してゐた。秀吉は破綻なく手をひろげる手腕はあつたが、まとめあげる完成力、理知と計算に欠けてゐた。家康には秀吉に欠けた手腕があり、そして時代そのものが、その経営の手腕を期待してゐた。時代は戦乱に倦み、諸侯は自らの権謀術数に疲れ、義理と法令の小さな約束に縛られて安眠したい大きな気風をつくつてゐる。それにも拘らず天下自然の窓がなほ家康の野心のためにひらかれ、天下は自ら二分して戦乱の風をはらんでゐる。それは豊臣家の世襲支配の準備不足のためであり、いはゞ秀吉の落度であつた。その秀吉の失敗の跡を、家康は身に泌《し》みて学び、否、遠く信長の失敗の跡から彼はすでに己れの道をつかみだしてゐた。彼は時代の子であつた。彼が自ら定めた道が時代の意志の結び目に当つてゐた。彼はためらはず時代をつかんだ。彼は命をはつたのだ。彼に課せられた仕上げの仕事が国内の整備経営といふ地味な道であつたから、彼は保身の老獪児であるかのやうに見られてゐるが、さにあらず、彼はイノチを賭けてゐた。秀吉よりも、信長よりも太々しく、イノチを賭けて乗りだしてゐた。
 利家は不安であつた。彼の穏健な常識がその奇妙な不安になやんでゐた。彼は家康の威風に圧倒されて正義をすて戦意を失ふ自分の卑劣な心を信じることができなかつたし、事実彼は勇気に欠けた卑怯な人ではなかつたから、その不安がなぜであるか理解ができず、彼はたゞ家康の野望を憎む心に妙な空間がひろがりだしてゐることを知るのであつた。彼は穏健常識の人であるから時代といふ巨大な意志から絶縁されてをらず、彼はいはゞたしかに時代を感じてゐた。それが彼に不安を与へ、心に空間を植えるのだつたが、友情といふ正義への愛情に執着固定しすぎてゐるので、その正体が理解できず、むしろ家康と会見し、一思ひに刺違へて死にたいなどゝ思ふのだつた。その彼は、すでに一間の空間を飛び相手に迫つて刺違へる体力すらも失つてゐた。
 家康は利家の小さな正義をあはれんだ。彼は利家を見下してゐた。利家の会見に応じ、刺違へて殺されないあらゆる用意をとゝの
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