《とてい》に逞しく育つてゐたのだ。

       三

 小田原包囲百余日、管絃のざわめきの中にも造言の飛び交ふのはどこの戦場も変りがない。話題の主は家康と信雄で、北条と通謀して夜襲をかける、奥州からは伊達政宗が駈けつける手筈になつてゐるなどゝ、流言必ずしも根のないことではない。当の家康の家来共が流言の渦にむせびながら腕を撫《ぶ》し、いつ夜襲の主命下るか、猿めを退治て、あとはこつちの天下だと小狸共の胸算用で憶測最も逞しい。
 ところが、家康は温和であつた。之は秀吉の用ひた表現であるが、家康は温和な人だから宜しいが、黒田のカサ頭は油断のできない奴だ、といふことを言つてゐた。
 秀吉は山崎合戦で光秀を退治て天下を自分の物としたが、光秀退治が秀吉一人の手によらず織田遺臣聯合軍といふものによつて為されたならば、天下の順は秀吉のところへは廻つてこない。信長には子供もあるし、柴田といふ天下万人の許した重臣もあり、之を覆す大義名分がないからである。秀吉は柴田と丹羽にあやかりたいといふので羽柴といふ姓を名乗つた。然しながら、柴田といへども信長の家臣だ。ところが、家康は家臣ではない。駿遠三の領主で、小なりといへども一王国の主人、信長の同盟国で、同盟国も格が下なら家臣と似たやうなものではあるが、ともかく独自の外交策によつて信長と相結んだ立場であつた。
 信長と信玄の中間に介在して武田の西上を食ひとめ信長の天下を招来した縁の下の力持が家康で、専ら田舎廻りの奔走、頼まれゝば姉川へも駈けつけて急を救ふ、越後の米つき百姓の如き精神を一貫、行動した。下剋上は当時の自然で、保身、利得、立身のために同盟を裏切ることは天下公認の合理であつたが、家康の同盟二十年、全く裏切ることがなく、専ら利得の香《かんば》しからぬ奔命に終始して、信長の長大をはかるために犬馬の労を致したのである。土百姓の律義であつた。素町人の貯金精神といふものだ。けれども一身一王国の存亡を賭けてニコ/\貯金に加入する、百姓商人に似て最も然からざるもの、天下に賭けて命をはつた賭博者は多いけれども、ニコ/\貯金に命をはつた家康は独特だつた。
 本能寺の変が起つたとき、家康は堺にゐた。武田勝頼退治の戦功で駿河を分けて貰つたから、その御礼挨拶のために穴山梅雪と上洛して、六月二日といふ日には堺に宿泊したのである。平時の旅行であるから近臣数十人をつれてゐるだけ、兵力がないから、本能寺の変と共に驚くべき速力をもつて堺を逃げだし、逃げ足の早いこと、あの道この道と逃げ方の巧妙なこと、さすが戦争の名人である。穴山梅雪は逃げる途中に捕はれて横死をとげたが、家康は無事岡崎に帰着して、軍兵を催し、イザ改めて出陣といふ時には、光秀退治に及び候といふ秀吉の使者が来たのである。家康は不運であつたが、然し、秀吉も家康も、四囲の情況によつて自然に天下を望む自分の姿を見出すまで、不当に天下を狙ひ、野望のために身が痩せるといふことがなかつた。木下藤吉郎は柴田と丹羽にあやかるために羽柴秀吉と改名したが、秀吉の御謙遜だといふのは後日の太閤で判断しての話で、改名の当時は全く額面通りの理由であつたに相違ない。彼の夢は地位の上昇と共に育ちはしたが、信長存命の限りは信長の臣、これが夢の限界で、信長第一の臣、それから信長の後継者、さういふ夢はあつたにしても、本能寺の変、光秀退治、自然の通路がひらかれるまで、それを狙ひはしなかつた。
 家康の夢は一さう地道だ。親代々の今川に見切をつけて信長と結んだ家康は、同盟二十年、約を守り義にたがはず、信長保険の利息だけで他意なく暮し、しかも零細な利息のために彼の為した辛労は甚大で、信玄との一戦に一身一国を賭して戦ふ。蟷螂《とうろう》の斧、このとき万一の僥倖《ぎょうこう》すらも考へられぬ戦争で、死屍累々、家康は朱にそまり、傲然斧をふりあげて竜車の横ッ面をひつかいたが、手の爪をはがした。目先の利かないこと夥しく、みすみす負ける戦争に命をかけ義をまもる、小利巧な奴に及びもつかぬ芸当で、時に際し、利害、打算を念頭になく一身の運命を賭けることを知らない奴にいはゞ『芸術的』な栄光は有り得ない。芸術的とは宇宙的、絶対の世界に於けるといふことである。
 信長の横死。天下が俺にくるかも知れぬ、と考へたのは家康も亦、このときだ。けれども天運に恵まれず、堺に旅行中であつたから這々《ほうほう》の体《てい》で逃げて帰る、秀吉にしてやられて、天下は彼から遠退いた。けれども、織田信雄と結んで秀吉と戦ふことになつて、俄に情熱は爆発する、天下を想ふ亢奮は身のうちをたぎり狂つて、家康時に四十の青春、始めて天下の恋を知つた。
 破竹の秀吉を小牧山で叩きつけて、戦争に勝つたが、外交に負けた。上昇期の秀吉はまさに破竹であつた。滾々《こんこん》尽きず、善謀
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