のであり、浦上の村民のほゞ全数は元和寛永のむかしから表むき踏絵をふみ、仏徒のふりをしながら、ひそかにマリヤ観音を拝み、二百余年の潜伏信仰をつたえている、ということだった。話の途中、見物人のくる気配につとはなれて、なにくわぬふうをして、かえっていったという。これが日本における切支丹復活の日だ。
 この日から、神父と浦上部落とに熱烈な関係ができたのはいうまでもない。そのうちに明治となり、この事実が発覚した。明治政府はまだ信仰の自由を許しておらぬ。例の王政復古というやつで、宗教は神道ひとつ、仏教もつぶしてしまえという反動時代だったから、切支丹の復活を許すだんではなかった。何千という浦上部落の信徒が老幼男女一網打尽となり、多すぎて牢舎の始末もつかぬから、いくつかの藩に分割して牢にこめられ、とり調べをうけ、棄教をせまられる。
 寒ざらし、裸にして雪の庭へ坐らせるなどとそうとうの拷問もあったようだ。ところが拷問によっては、いっかな棄教せぬ。例の祈祷を唱え、痛苦に堪え、痛苦の光栄に陶酔するものゝごとくますます信仰をかためるというぐあいである。こゝまでは、元和寛永のむかしとかわらぬ。
 ところが、こゝに、意外なことが起った。肉体に加えられる残虐痛苦に対してますます信念をかためるごとき彼らが、たわいもなく何百人、一時に棄教を申しでるというおもわぬことが起って、役人をまごつかせたのである。
 ことの起りは空腹に堪えかねたのだ。そして悲鳴をあげてしまった。身に加わる残虐痛苦にはその荘厳と光栄がかえって彼らを神に近づけてくれたが、無作意な、なんの強要もない食糧の配給に、そして、その量のたくまざる不足に、強要せられずして神からはなれてしまったのである。その食糧は決して少い量ではなかった。彼らの配給は正確に一人一日あたり三合であった。役人たちは食物によって棄教せしめることなど空想もしていなかったので、規定どおりの三合を与え、頭をはねたりはしなかった。今とちがって、米のない時世ではなかったから。そして、雪の上へ裸で坐らせて、そっちの方法で棄教させようと大汗を流していたのであった。

          ★

 農民は一升めしが普通だという。切支丹農民でもやっぱり一升めしの口であったのだろう。それにしても、拷問に屈せぬ彼らが三合の配給に神をうらぎったとは夢のようだ。しかし、みじんも嘘ではない。『浦上切支丹史』に書かれている事実だ。
 二合五勺配給のわれわれはどうにも信じようがなくなるのは無理もない。われわれはついさきごろまでは二合一勺だの、そのうえ、その欠配が二十日もつゞいていたのだから。しかるにわれわれは暴動も起しておらぬ。拷問よりも三合の米に降参したという浦上切支丹の信仰が、だらしがなかったのではなかろう。要するに、戦争というものが、信仰などより、ケタちがいに深遠巨大な魔物であるからに相違ない。われわれは、このふしぎさを自覚していないだけだ。勝手に戦争をはじめたのは軍部で、勝手に降参したのも軍部であった。国民は万事につけて寝耳に水だが、終戦が、しかし、自分の意志でなかったという意外の事実については、おゝむね感覚を失っているようである。
 国民は戦争を呪っていても、そのまた一方に、もっと根底的なところで、わが宿命をあきらめていたのである。祖国の宿命と心中して、自分もまた亡びるかも知れぬ儚さを甘受する気持になっていた。理論としてどうこうということではない。誰だって死にたくないにきまりきっている。それとは別に、魔物のような時代の感情がある。きわめて雰囲気的な、そこに論理的な根柢はまったく稀薄なものであるが、ぬきさしならぬ感情的な思考がある。
 家は焼かれ、親兄弟、女房、子供は焼き殺されたり、粉みじんに吹きとばされたり、そういう異常な大事にもほとんど無感覚になっている。人ごとではない。自分とて今日明日死ぬかも知れず、いな、昨日死なゝかったのがふしぎな状態を眼前にしながら、その戦争をやめたいとみずから意志することは忘れていたのである。
 忘れていたのではない、その手段がありえなかったからあきらめていたのだといっても、おなじことで、要するにあきらめていた。勝手に戦争をやめ、降参したのは、まさしく天皇と軍人政府で、国民の方はおゝむね祖国の宿命と心中し、上陸する敵軍の弾丸、爆弾、砲弾の隙間をうろうろばたばた、それを余儀ないものにおもっていたのだ。
 もとよりそれは本心ではない。人間の本心というものは、こればかりはわかりきっているのだから。曰く、死にたくない、ということ。けれども、本心よりも真実な時代的感情というものがある。人の心には偽りがあり、その偽りが真実のときは、真実が偽りでありうることもある。人の心は儚い。心の真実というものが儚いのだ。
 戦争中のわれわれは、たゞ
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