は元明の娘であつた。
二人の幼帝の成人を待つ三人の老いたる女は同じ血液と性格を伝承し、ひたすら家名の虫の如き執拗な意志を伝承してゐた。時代と人は変つても、その各々の血と意志に殆ど差異はなかつたのだ。
家名をまもる彼女等の意志は、男の家長の場合よりも鞏固であつた。なぜなら、彼女等の自由意志は幼帝を育てるといふ事柄のうちに没入し、彼女等の夢の全てがたゞ幼帝の成人に托されてゐたからである。女達がその自由意志、欲情を抑へ、自ら一人の犠牲者に甘んじて一つの目的に没頭するとき、如何なる男も彼女等以上に周到な才気と公平な観察を発揮することはできないものだ。
史家は三千代を女傑といふ。意味にもよるが三千代はたぶん策師ではなかつた筈だ。なぜなら私情を殺した女の支配者の沈静なる観察に堪へて最大の信任を博したのだから。彼女は貞淑であり、潔癖であり、忠実であつたに相違ない。もとより、すぐれた才気はあつたが、善良であつたに相違ない。温和であつたに相違ない。
沈静な女支配者の周到な才気と観察の周囲には男の策略もはびこる余地はなかつた。大臣は温和であつた。藤原不比等は正しかつた。彼等は実直な番頭だつた。すべての意志が、天皇家の家名のために捧げられ、一途に目的を進んでゐた。
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これらの痛烈な意志を受けて、その精霊の如くに、首皇子は成長した。聖武天皇であつた。
その皇后は三千代と不比等の間にできた長女の安宿《アスカ》であつた。全身は光りかゞやく如くであつたから、光明子とよばれ、又光明皇后ともよばれた。天皇と同じ年齢だつた。まだ皇太子のころ、元明天皇が選んで与へたものだつた。
そのときまで、皇后は内親王、王女に限るものとされ、臣下の女は夫人以上にはなり得ない定めであつた。聖武天皇即位六年の後、五位以上、諸司の長官を内裏に集めて、光明皇后|冊立《さくりつ》を勅せられたが、他に何人かの意志があつたにしても、最も多く聖武天皇の意志であつたに相違ない。なぜなら、光明皇后を何物にもまして熱愛してゐたからであつた。
安宿は天下第一の女人の如くに教育された。それは三千代の悲願であつた。不比等の女(三千代の腹ではない)宮子は入内《じゆだい》して文武天皇の夫人となつた。文武天皇は妃も皇后もめとらず、宮子は実質上の皇后だつたが、天皇は二十五で夭折した。首皇子即ち聖武天皇はその一粒種であつた。
安宿は天性の麗質であり怜悧であつた。年齢も亦首皇子に相応し、生れながらにして、天皇の夫人たるべき宿命をあらはしてゐたけれども三千代は更に一つの慾念があつた。それは彼女の一世一代の慾念だつた。三千代はすでに年老いてゐた。その一生は誠心誠意、たゞ忠誠を事として、不当の私慾をもとめたことはない。その長男、葛城王は臣籍に降下して橘諸兄となり、大臣となつたがそれは自然の成行で、そして諸兄は温良忠誠な大臣だつた。けれども三千代は年老いて、今、やみがたい一代の慾念をどうすることもできない。それは安宿を夫人でなしに、皇后にしたいといふことだつた。
そして安宿はその母なる一代の才女によつて、天下第一の女人の如くに教育された。当然首皇子の夫人であり、やがて、どうあらうとも皇后であらねばならぬ悲願をこめて育てられた。麗質は衣を通して光りかゞやき、広大な気質と才気は俗をぬき、三千代の期待の大半は裏切られる何物も見出すことができなかつた。
女支配者の沈静な心をこめ夢を托して育てあげられた首皇子は、その沈静な女たちの心情によつて厭はれるものを厭ひ、正しとするものを正しとする心情を与へられてゐた。その沈静な女たちの心情が厭ふものは淫乱であり、正しとするものは信仰であつた。
元明天皇が首皇子に安宿を与へるとき、特に言葉を添へて、これは朝家の柱石であり、無二の忠臣であり、主家のためには白髪となり、夜もねむらぬ人の娘なのだから、たゞの女と思はずに大切にするやうに、といふ言葉があつた。
然し、そのやうな言葉すらも不要であつた。皇子の心はすべてに於て安宿によつて満たされた。美貌と才気は言ふまでもなかつた。特にその魂の位に於て。天下第一の魂の位に於て。
まさしく二人は、そのやうに希はれ、祈られ、夢みられて、その如くに育てあげられた無二の二人であつた。首皇子を育てたものは、その祖母と伯母の外に、更により多く三千代であつた。そして三千代は首皇子を念頭に常に安宿を育てゝゐた。首皇子はその幼少に三千代にみたされて育つた翳を、より若く、より美しい安宿の現実の魅力の中で、思ひだし、みたされてゐた。曾《かつ》て四囲の女人達に吹きこまれてゐた天下第一の身の貫禄を、安宿の自然の態度の中に見出して、その各々が、より高くみたされることが出来るのであつた。
天平十八年、大仏の鋳造に当つて「天下の富をたもつ者は朕なり。天下の勢をたもつ者も朕なり」と勅した天皇は、その鋳造を終つて東大寺に行幸し、皇后と共に並んで北面の像に向ひ、凛々と大仏に相対し、橘諸兄に告げしめて「三宝の奴《やつこ》と仕へ奉る」と、そして敬々《うやうや》しく礼拝した。人は実に自愛の果には礼拝の中に身の優越を見出すものだ。
それは二人の宿命の遊びであつた。五丈余の大仏と、それをつゝむ善美華麗、天下の富をつくした建築、諸国には国分寺が立ち、国分尼寺が立ち、それは、まさしく天下の富を傾けつくしてゐたのである。
諡号《しごう》して聖武天皇といふ。武は内乱の鎮定であるが、聖は神武の聖徳をつぎ、それにも劣らぬ天下興隆の英主としての聖の字であつた。その聖の字はたゞ宮中の内外の仏徒の口によるものであり、その聖徳も仏徒によつてたゝへられてゐるものだつた。宮中にすら国民の窮乏に思ひをよせる人はゐた。果して天下は興隆したか。然り、仏教は興隆した。奈良の都は栄えた。諸国に国分寺がたち、大仏がつくられ、東大寺は都の空に照り映えた。天皇は三宝の奴となつた。
然し、その巨大なる費用のために、諸国は疲弊のどん底に落ち、庶民は貧窮に苦しんでゐた。朝廷は怨嗟の的となり、重税をのがれるための浮浪逃亡が急速に各地に起り、おのづから荘園はふとり、国有地は衰へ、平安朝の貴族の専権、ひいては武家の勃興、朝家の没落の種はかうしてまかれてゐたのである。
然し、二人の宿命の子は、そのやうなことは振向きもしない。たゞ常に天下第一の壮大華麗な遊びだけがあるだけだつた。それは二人の意志のみではない。六朝をかけた家名の虫、女主人たちの意志だつた。沈静なる女支配人たちの綿密な心をこめた霊気の精でもあつたのである。
そして、宿命の二人に子供が生れた。娘であつた。持統天皇がその強烈沈静な思ひをこめてから六代、最後の精気が凝つてゐた。それが孝謙天皇であつた。
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三宝の奴と仕へまつると大仏に礼拝したその年の七月、聖武天皇は愛する娘に位を譲つて上皇となつた。新女帝はそのとき三十三だつた。
この女帝ほど壮大な不具者はゐなかつた。なぜなら、彼女は天下第一の人格として、世に最も尊貴な、そして特別な現人神として育てられ、女としての心情が当然もとむべき男に就ては教へられてゐなかつたからだ。結婚に就ては教へられもせず、予想もされてゐなかつた。父母の天皇皇后はそのやうに彼女を育て、そして甚だ軽率に彼女の高貴な娘気質を盲信した。我々の娘だ。特別な娘だ。男などの必要の筈はない、と。
首皇子を育てゝくれた祖母の元明天皇も、伯母の元正天皇も、未亡人で、独身だつた。彼女等の身持は堅かつた。そして聖武天皇は、当然孤独な性格をもつ女支配者の威厳に就て、見馴れるまゝに信じこみ、疑つてみたこともなかつた。彼は全然知らなかつた。祖母も伯母も、女としての自由意志が殺されてゐたことを。彼女等は自ら選んで犠牲者に甘んじてゐた。彼女等の慾情は首皇子を育てることの目的のために没入され、その目的の激しさに全てがみたされてゐた。彼女等は家名をまもる虫であり、真実自由な女主人ではなかつたのだといふことを。
この二つの女主人の、根柢的な性格の差異を、聖武天皇はさとらなかつた。
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新女帝の治世の始めは、まだ存命の父母に見まもられて、危なげはなかつた。政治はむつかしいものではなかつた。たゞ全国的な大きな田地を所有する地主であり、その毎年の費用のために税物を割当て、とりあげるのが政治であつた。
上皇は剃髪して法体《ほつたい》となり、ひたすら信仰に凝つてをり、女帝は更に有閑婦人の本能によつて、その与へられた大きな趣味、信仰といふ遊びの中で、伽藍に金を投じ、儀式を愛し、梵唄《ぼんばい》を愛し、荘厳を愛してゐた。
上皇が死んだ。つゞいて母太后も死んだ。女帝は遂に我身の自由を見出した。女帝は急速に女になつた。
孝謙天皇は即位の後に、皇后宮職を紫微中台《しびちゆうだい》と改め、その長官に大納言藤原仲麿を登用してゐた。仲麿はもう五十をすぎてゐた。右大臣豊成の弟であつた。兄は温厚な長者であつたが、仲麿は自身の栄達の外には義理人情を考へられない男であつた。
天皇は、恋愛の様式に就て、男を選ぶ美の標準も、年齢の標準も、気質に就ての標準も、あらゆるモデルを持たなかつた。魂の気品の規格は最高であつたが、その肉体の思考は、肉体自体にこもる心情は、山だしの女中よりも素朴であつた。
天皇はその最も側近に侍る仲麿が、最も親しい男であるといふだけで、仲麿を見ると、それだけで、とろけるやうに愉しかつた。四十に近い初恋だつた。母太后の死ぬまでは、それでも自分を抑へてゐた。
彼女ほど独創的な美を見出した人はなかつたであらう。彼女には仲麿の全てのものが可愛いかつた。彼女はたゞ自らの好むものを好めばよい。標準もなくモデルもなかつた。たゞ仲麿に見出した全てのものが、可愛くて、いとしくて、仕方がなかつたゞけだつた。
天皇は仲麿を見るたびに笑《え》ましくなるので、改名して、恵美押勝《えみのおしかつ》と名のらせた。押勝とは、暴を禁じ、強に勝ち、戈《ほこ》を止《とど》め、乱を静めたといふ勲《いさおし》の、雄々しい風格の表現だつた。そして大保《たいほう》に任じ、あまつさへ、貨幣鋳造、税物の取り立てに、恵美家の私印を勝手に使用してよろしいといふ政治も恋も区別のない出鱈目な許可を与へたのである。
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孝謙天皇の皇太子は道祖《フナド》王で、天武天皇の孫に当り、他に子供のない聖武天皇は特にこの人を愛して、皇太子に選んだ。それは聖武の意志であり、政治に就て親まかせの孝謙天皇は、まだその頃は皇太子などはどうでもよくて、自身の選り好み、差出口はしなかつた。
恵美押勝(まだその頃は藤原仲麿だつたが、時間の前後による姓名の変化は以後拘泥しないことにする)はその長男が夭折した。そして寡婦が残された。そこで道祖皇太子の従兄弟に当る大炊《おおい》王を自邸に招じ、この寡婦と結婚させて養つてゐた。彼は女帝が皇太子に親しみを持たないことを知つてゐたので、それを廃して、大炊王を皇太子につけたいものだと考へてゐた。
死床についた上皇は、天下唯一人の女であらねばならぬ娘が、やつぱりたゞの肉体をもつ宿命の人の子であることに気付いてゐた。上皇はたゞ怖しかつた。全てを見ずに、全てを知らずに、ゐたい気持がするのであつた。然し、彼は、ともかく娘を信じたかつた。なぜ肉体があるのだらうか。あの高貴な魂に。あの気品の高い心に。その肉体を与へたことが、自分の罪であるとしか思はれない。そして彼は娘のその肉体にかりそめの訓戒をもらすだけの残酷さにも堪へ得なかつた。
彼は死床に押勝をよんだ。腕を延せば指先がふれるぐらゐ、すぐ膝近く、坐らせた。そして、顔をみつめた。私の死後はな、彼は相手の胸へ刻みこむやうに、一語づゝ、ゆつくり言つた。安倍内親王(孝謙帝)と道祖王が天下を治めることになつてゐる。安倍内親王と、それに、道祖王がだよ。お前はこのことに異存はないか。はい、まことに結構なことゝ存じてをります。さうか。それならば、神酒を飲め。そして、誓ひをたて
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