力が最も強く働いてゐた。橘三千代《たちばなのみちよ》であつた。天武以来、持統、文武、元明、元正、聖武、六代にわたつて宮中に手腕をふるつた女傑であつた。
男の天皇に愛せられた女傑の例は少くない。然し、男の天皇にも、別して女の天皇により深く親しまれ愛されたといふ女傑の例はめつたにない。
三千代は始め美努王《みぬのおおきみ》に嫁して葛城《かつらぎ》王(後の橘|諸兄《もろえ》)を生み、後に、藤原不比等に再嫁して光明皇后を生んだ。元明女帝の和銅元年、御宴に侍した三千代の杯に橘が落ちたのに因んで橘|宿禰《すくね》の姓を賜つたのである。
史家は推測して、三千代は文武天皇のウバの如きものではなかつたか、又、首皇子に就ても同じやうな位置にあつたのではないか、といふ。とまれ六朝に歴侍して宮中第一の勢力を持ち、男帝女帝二つながら親愛せられて、終生その勢力に消長がなかつたといふ三千代の才気は、いさゝか我々の理解を絶するものがある。
然し、かういふことが云へる。六朝に歴侍して終生その宮中第一の勢力に消長がなかつたといふ三千代の当面の才気に就ては分らない。然し、三千代の地位と勢力に変りがなかつた半《なかば》の理由は宮中自体の性格の中にも在るのだ、と。
天武天皇までの歴朝はお家騒動の歴史であつた。天武天皇自体、兄天皇に憎まれ、逃走、流浪、戦乱の後に帝位に即いた人である。然し、つづいて持統よりも聖武に至るまで、持統の初期にお家騒動の多少のきざしが有つたゞけで未然に防がれ、それより後は「家」といふ足場自体に不安のきざしたことはない。たまたま男の継嗣は長寿にめぐまれず、幼児を擁して女帝の摂政がつゞいたとはいへ、その成人にあらゆる希願と夢を托して、一方に朝家の勢力、日本支配は着々と進み、すべては順調であつた。六朝の意志に変化はなく、六朝の性格は一貫してゐた。
夫(天武)より妻(持統)へ。
祖母(持統)より孫(文武)へ。(まんなかの父(草壁太子)は夭折したのだ。然し、母は残り、これ又、次に天皇となる)
子(文武)より母(元明)へ。(この母は同時に持統の妹でもあつた)
母(元明)より娘(元正)へ。(この娘は文武の姉に当つてゐた)
伯母(元正)より甥(聖武)へ。
文武を育てる持統の意志は、聖武を育てる元明、元正両帝の意志の原形であり、全く変りはなかつた筈だ。元明は持統の妹だ。そして、元正は元明の娘であつた。
二人の幼帝の成人を待つ三人の老いたる女は同じ血液と性格を伝承し、ひたすら家名の虫の如き執拗な意志を伝承してゐた。時代と人は変つても、その各々の血と意志に殆ど差異はなかつたのだ。
家名をまもる彼女等の意志は、男の家長の場合よりも鞏固であつた。なぜなら、彼女等の自由意志は幼帝を育てるといふ事柄のうちに没入し、彼女等の夢の全てがたゞ幼帝の成人に托されてゐたからである。女達がその自由意志、欲情を抑へ、自ら一人の犠牲者に甘んじて一つの目的に没頭するとき、如何なる男も彼女等以上に周到な才気と公平な観察を発揮することはできないものだ。
史家は三千代を女傑といふ。意味にもよるが三千代はたぶん策師ではなかつた筈だ。なぜなら私情を殺した女の支配者の沈静なる観察に堪へて最大の信任を博したのだから。彼女は貞淑であり、潔癖であり、忠実であつたに相違ない。もとより、すぐれた才気はあつたが、善良であつたに相違ない。温和であつたに相違ない。
沈静な女支配者の周到な才気と観察の周囲には男の策略もはびこる余地はなかつた。大臣は温和であつた。藤原不比等は正しかつた。彼等は実直な番頭だつた。すべての意志が、天皇家の家名のために捧げられ、一途に目的を進んでゐた。
★
これらの痛烈な意志を受けて、その精霊の如くに、首皇子は成長した。聖武天皇であつた。
その皇后は三千代と不比等の間にできた長女の安宿《アスカ》であつた。全身は光りかゞやく如くであつたから、光明子とよばれ、又光明皇后ともよばれた。天皇と同じ年齢だつた。まだ皇太子のころ、元明天皇が選んで与へたものだつた。
そのときまで、皇后は内親王、王女に限るものとされ、臣下の女は夫人以上にはなり得ない定めであつた。聖武天皇即位六年の後、五位以上、諸司の長官を内裏に集めて、光明皇后|冊立《さくりつ》を勅せられたが、他に何人かの意志があつたにしても、最も多く聖武天皇の意志であつたに相違ない。なぜなら、光明皇后を何物にもまして熱愛してゐたからであつた。
安宿は天下第一の女人の如くに教育された。それは三千代の悲願であつた。不比等の女(三千代の腹ではない)宮子は入内《じゆだい》して文武天皇の夫人となつた。文武天皇は妃も皇后もめとらず、宮子は実質上の皇后だつたが、天皇は二十五で夭折した。首皇子即ち聖武天皇はその一粒
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