母の天皇皇后はそのやうに彼女を育て、そして甚だ軽率に彼女の高貴な娘気質を盲信した。我々の娘だ。特別な娘だ。男などの必要の筈はない、と。
首皇子を育てゝくれた祖母の元明天皇も、伯母の元正天皇も、未亡人で、独身だつた。彼女等の身持は堅かつた。そして聖武天皇は、当然孤独な性格をもつ女支配者の威厳に就て、見馴れるまゝに信じこみ、疑つてみたこともなかつた。彼は全然知らなかつた。祖母も伯母も、女としての自由意志が殺されてゐたことを。彼女等は自ら選んで犠牲者に甘んじてゐた。彼女等の慾情は首皇子を育てることの目的のために没入され、その目的の激しさに全てがみたされてゐた。彼女等は家名をまもる虫であり、真実自由な女主人ではなかつたのだといふことを。
この二つの女主人の、根柢的な性格の差異を、聖武天皇はさとらなかつた。
★
新女帝の治世の始めは、まだ存命の父母に見まもられて、危なげはなかつた。政治はむつかしいものではなかつた。たゞ全国的な大きな田地を所有する地主であり、その毎年の費用のために税物を割当て、とりあげるのが政治であつた。
上皇は剃髪して法体《ほつたい》となり、ひたすら信仰に凝つてをり、女帝は更に有閑婦人の本能によつて、その与へられた大きな趣味、信仰といふ遊びの中で、伽藍に金を投じ、儀式を愛し、梵唄《ぼんばい》を愛し、荘厳を愛してゐた。
上皇が死んだ。つゞいて母太后も死んだ。女帝は遂に我身の自由を見出した。女帝は急速に女になつた。
孝謙天皇は即位の後に、皇后宮職を紫微中台《しびちゆうだい》と改め、その長官に大納言藤原仲麿を登用してゐた。仲麿はもう五十をすぎてゐた。右大臣豊成の弟であつた。兄は温厚な長者であつたが、仲麿は自身の栄達の外には義理人情を考へられない男であつた。
天皇は、恋愛の様式に就て、男を選ぶ美の標準も、年齢の標準も、気質に就ての標準も、あらゆるモデルを持たなかつた。魂の気品の規格は最高であつたが、その肉体の思考は、肉体自体にこもる心情は、山だしの女中よりも素朴であつた。
天皇はその最も側近に侍る仲麿が、最も親しい男であるといふだけで、仲麿を見ると、それだけで、とろけるやうに愉しかつた。四十に近い初恋だつた。母太后の死ぬまでは、それでも自分を抑へてゐた。
彼女ほど独創的な美を見出した人はなかつたであらう。彼女には仲麿の全てのものが可愛いかつた。彼女はたゞ自らの好むものを好めばよい。標準もなくモデルもなかつた。たゞ仲麿に見出した全てのものが、可愛くて、いとしくて、仕方がなかつたゞけだつた。
天皇は仲麿を見るたびに笑《え》ましくなるので、改名して、恵美押勝《えみのおしかつ》と名のらせた。押勝とは、暴を禁じ、強に勝ち、戈《ほこ》を止《とど》め、乱を静めたといふ勲《いさおし》の、雄々しい風格の表現だつた。そして大保《たいほう》に任じ、あまつさへ、貨幣鋳造、税物の取り立てに、恵美家の私印を勝手に使用してよろしいといふ政治も恋も区別のない出鱈目な許可を与へたのである。
★
孝謙天皇の皇太子は道祖《フナド》王で、天武天皇の孫に当り、他に子供のない聖武天皇は特にこの人を愛して、皇太子に選んだ。それは聖武の意志であり、政治に就て親まかせの孝謙天皇は、まだその頃は皇太子などはどうでもよくて、自身の選り好み、差出口はしなかつた。
恵美押勝(まだその頃は藤原仲麿だつたが、時間の前後による姓名の変化は以後拘泥しないことにする)はその長男が夭折した。そして寡婦が残された。そこで道祖皇太子の従兄弟に当る大炊《おおい》王を自邸に招じ、この寡婦と結婚させて養つてゐた。彼は女帝が皇太子に親しみを持たないことを知つてゐたので、それを廃して、大炊王を皇太子につけたいものだと考へてゐた。
死床についた上皇は、天下唯一人の女であらねばならぬ娘が、やつぱりたゞの肉体をもつ宿命の人の子であることに気付いてゐた。上皇はたゞ怖しかつた。全てを見ずに、全てを知らずに、ゐたい気持がするのであつた。然し、彼は、ともかく娘を信じたかつた。なぜ肉体があるのだらうか。あの高貴な魂に。あの気品の高い心に。その肉体を与へたことが、自分の罪であるとしか思はれない。そして彼は娘のその肉体にかりそめの訓戒をもらすだけの残酷さにも堪へ得なかつた。
彼は死床に押勝をよんだ。腕を延せば指先がふれるぐらゐ、すぐ膝近く、坐らせた。そして、顔をみつめた。私の死後はな、彼は相手の胸へ刻みこむやうに、一語づゝ、ゆつくり言つた。安倍内親王(孝謙帝)と道祖王が天下を治めることになつてゐる。安倍内親王と、それに、道祖王がだよ。お前はこのことに異存はないか。はい、まことに結構なことゝ存じてをります。さうか。それならば、神酒を飲め。そして、誓ひをたて
前へ
次へ
全12ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング