申は天人にて御座候其分可有御心得候
一加津佐村の寿庵と申人も則天人の御供なされ候間寿庵手前より先々へ遣申候
つまり、島原半島には農民一揆の気運がたかまり、天草島では切支丹反乱の準備がすゝんでゐた。一揆は島原半島で爆発したが、農民だけでは収まりがつかなくなつて、天草の切支丹組に助勢をもとめ四郎を大将として原の廃城にたてこもることゝなり、一揆は、切支丹の色が濃くなつた。結局、最後には、切支丹反乱の形態になつたのである。
徳川時代には、島原の乱といへば、切支丹騒動と一口に言つた。ところが、明治以後には、農民一揆と訂正され、切支丹の陰謀が不当に忘れられようとしたのである。これは一に教会側の宣伝と、切支丹学者の多くがキリスト教徒であるため、切支丹に有利な解釈をとりがちであつた為である。コレアの手記に拠る限り、島原の乱は純然たる農民一揆の如くであるが、コレアの手記に偏して日本の記録を無視することは不当である。コレアの手記はむしろ、参考にとゞまるものでしかあるまい。
私が長崎図書館を訪れたとき、館長は、貴重な資料の蒐集をとりだして説明してくれたが、そのなかに、これは教会側の記録ですが、と言つて、取出したものに、小さなパンフレットがあつた。裏を返すと昭和四年発行、大浦天主堂とあり、一部五銭であつた。今も教会に売つてゐるから、もとめて御帰りなさいと言はれた。
私が泊つてゐたイーグルホテルは、丁度、大浦天主堂の真下なのだ。ホテルをでゝ、坂道を四五十秒も歩くと、もう、天主堂の前である。翌日、私は天主堂へ登つて行つた。
私は門番にパンフレットのことをきいた。あゝ、その本はね、昔はこゝでも売つてゐたが、今は本の係りの佐々木といふ人が取扱つてゐますから、上の入口でその人を呼出してきゝなさい、と教へてくれた。私は石段を登り、中段の入口でその人を呼出した。
私が来意をつげると、その人の眼に狼狽の色が走つた。「そんな本は出版したことがありません」彼は言つた。
「いゝえ。出版されてゐます。私は昨日図書館で見てきたのです。図書館長が現に売つてゐるからと言つてゐます。私は怪しいものではありません」
私は自分が小説家であること、又、この旅行の目的が島原の乱を小説にするためであることを説明して、名刺をだした。私の名刺に、彼は顔をそむけた。まるで、それが悪魔の護符であるやうな、愚昧な人の怖れで
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