実な勉強も行われていない。たゞもう、自分の小説に都合よく、デクノボーみたいに、あっちへ曲げこっちへヒン向け、有りうべからざる人間心理をデッチあげて、平然たるものである。
 探偵作家の人間に対する無智モーマイ、それが即ち、探偵作家の根柢的な無批判性の当然の帰結でもあり、批判力があるならば、第一に、百年一日の如くクダラヌ形式を鵜のみに物語をデッチあげて済ましておられる筈もなく、デクノボーのような人間をこしらえあげて済ましていられる筈もない。
 探偵作家はもっと人間を知らねばならぬ。いやしくも犯罪を扱う以上、何をおいても、第一に人間性についてその秘奥を見つめ、特に人間の個性について、たゞ一つしかなく、然し合理的でなければならぬ個性について、作家的、文学的、洞察と造型力がなければならぬものである。個性は常に一つしかない。然し、どの個性も、どの人も、個性的であると共に合理的でなければならぬ。いかなる変質者も狂人も、合理的でなければならぬ。
 人間性には、物理や数学のような公理や算式はない。それだけに、あらゆる可能性から、合理性をもとめることには、さらに天分が必要なのである。人間の合理性をもとめるための洞察力をもたないことは、作家たる天分に欠けることで、これを公理や算式で判定できないだけ実はその道が険しいのだが、現下の探偵小説界は、洋の東西を問わず、実はアベコベに、公理や算式がないことを利用して、勝手なデタラメをかき、クダラヌ不合理をデッチあげて、同じ穴の狸が、馴れ合って、埒もないものをヤンヤと云っているだけなのである。
 もう一つ、私がうけとった投書の一つに(この投書の主は自ら探偵作家と書いてある)私の「不連続殺人事件」に、あれだけの有名人の大犯罪に署長も検事も判事も現れず、新聞記者も現れないとは、とあるが、こういうクダラヌ現実模写がレアリズムの正道だと思っているから、くだらぬ模写に紙数の大半を費して、物語の本筋についての検討がオロソカになるのである。
 署長がきた、予審判検事がきた、新聞記者がきた、そんな本筋の外側のものなど一々アイサツしておっては、文学という芸術にはならない。何を書くべきか、フィクションとは何ぞや、それぐらいの小説作法入門ぐらいは心得ていなければならぬ。
 然し、日本だけではない。西洋に於ても、探偵小説作家は幼稚でありすぎるようだ。



底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「黒猫 第二巻第九号」
   1948(昭和23)年7月1日発行
初出:「黒猫 第二巻第九号」
   1948(昭和23)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング