もなしに一国の政治をとるなどとは言語道断と申さねばならぬ。
もとより、万人が聖人となった理想社会でなければ、犯罪のなくなる時はなく、万人ことごとく聖人となる時代など永遠に有りうるはずがないから、犯罪のつきる時はなかろう。
われわれ文学の徒は、人間をすべて罪の子と見、あらゆる人間が誰しも同じだけ罪の因子をもつものと見て、その個人に加わる条件に犯罪の必然性を認め、一キクの涙をそそぐ。かかる場合に、われわれは、罪を政治にぬりはせず、人間の宿命のせつなさに思いを寄せ、無限の愛を寄せ、せめても、その愛によって、高まりたいとこい希うものである。
しかし、政治家は、文学の徒とは違う。文学の徒は、犯罪を人間の宿命によせ、愛によって高まることを方法とするが、政治は人間の原罪に関するものでなくて、現実の、そして万人に公平に課せられた配給的なものである。単なる米ミソの配給にかぎらず、大体に、制度というものは配給的なものなのである。
文学の徒は、犯罪を宿命に寄せ、政治などに罪をぬりつけはしないけれども、政治家は、政治の罪を自覚しなければならぬ。犯罪の中に政治の貧困を自覚しなければならない。その謙虚にして誠実な自覚があって、初めて政治というものに向上を期待し、われわれの生活をゆだねうるのである。
政治家に、人間の自覚が欠けているのだ。政策もむろん欠けている。しかし、なによりも、人間の自覚が完全に欠如している。首相が行い正しいクリスチャンであるとか、品行方正であるとか、そんなことは、とるに足らぬ。品行不良でもかまわないから、人間とはいかなるものか、自分とはいかなる人間か、人間の宿命の悲痛さを、深く誠実に思い知り、罪の悲しさを知らねばならぬ。
私は帝銀事件に戦野を思う。十六人がバタバタ倒れてゆく。一人冷然とそれを見ている犯人。私はどうしても悪鬼の姿を見ることはできない。私はそこに、戦野の匂いをかぎ、五月のうららかな陽ざしの下で屍人の帽子をポイと投げる無心な健康な原色的な風景を思いだす。
いったい、なにを憎んだらいいのだ。なにも憎む必要はないのだ。人の宿命の悲しさに思いいたれば、憎むべきなにものもあるはずはない。そしてそこから、おのずからまことの建設は行われてくるはずのものなのだ。
まず人間を自覚しよう。人間とはなにものであるか、謙虚に、誠実に、自分の心をふりかえる生活を、万人がもつ必要がある。帝銀事件などは、どうでもいい。三面記事、ビッグ・ニュース、それを面白がるだけで、たくさん。道義タイハイ、兇悪なる世相、などと、それは余計の邪魔物、あって益なく、百害あるだけのコケのお説法というものだ。
どこかの都立の産院だか、病院だかで、捨子公認所をつくったそうだが、こういう工夫をいろいろとやる方に頭を使うべきである。捨子なさる方は当院の玄関へソッとおいて逃げてください、会いたくなったら、いつでもいらっしゃい、丈夫に育てておきます、などというのは、まことに気がきいていてオツな話だ。日本の風教の施策は、まずこんなふうな形のところから出発すべきだろうと私は思う。一人の悪産院を罰するよりも、捨子公認所をつくる、この方が健全な政治なのである。
底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「中央公論 第六三年第三号」
1948(昭和23)年3月1日発行
初出:「中央公論 第六三年第三号」
1948(昭和23)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年4月1日作成
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