へそゝぐところに澱んだ溜りがえぐられて、曲折して海へ流れている。この澱みが、早川でたった一ヶ所ドブ釣りのできる場所で、ここで糸をたれていると、背中へ太平洋のシブキがかかるのである。砂浜で、海に背をむけて鮎を釣ることになるのである。この風景だけは雄大きわまるものであったが、釣れる鮎はメダカにすぎないのであった。
 詩人の熱狂ぶりにつりこまれて、私もひとつ釣ってみようという気持になった。私がそういう気持になった最大の原因は、鮎はカバリというものを用いて、一々エサをつける必要がないという不精なところが何よりピッタリしたからであった。それに鮎は、手でつかんでも、手が臭くならないことが私を安心させもした。
 私は朝の四時にはすでに流れに立っていた。私の家から流れまで三十秒、土堤を登って降りるだけの時間ですむのである。
 私は三十分ぐらいの時間に三十匹程メダカを釣った。五本のカバリがついていたが、時には同時に三匹つれたこともあった。つれた時、糸をあげる手応えは、メダカでも、ちょッと悪くないものだ。それが気に入って、三日間つゞけたが、だんだん釣れなくなったので、やめた。たくさん泳いでいる鮎の姿は目に見えるが、利巧になるせいか、かからなくなってしまう。それに、ちょッと明るくなると、流し釣はもうダメである。薄明とカバリの色や形とに微妙な関係があるらしく、私の五ツのカバリのうちで、かかってくるのは、いつも同じハリであった。なるほど釣り師が微妙な心境になったり、むつかしいことを言いたがる心境になるのも当然かも知れない。とにかく、エサをつける手間がかゝらないという点だけで、私は今でも、鮎つりだけはやってもよい気持が残っているのである。
 小林秀雄、島木健作は馬鹿正直にやってきて、メダカをくって酒をのんでいた。
「ウム、鮎の香がする」
 といって、ともかく、満足しているのは三好達治だけであった。かすかに鮎とおぼしき味覚の手応えがあるが、概ね頭と骨とそれをつゝむ若干の魚肉の無にちかい量を感じるだけであった。
 それでも、昼すぎる頃に、三好の門弟が酒匂《さかわ》川で釣った鮎を持ってきた。釣り場の料金を払うだけあって、四五寸はあり、二百匹釣っていた。二百匹ともなればメダカでも大したものだが、早川の方は我々合計して五十匹ぐらいの悲しい収獲であった。タダだから、仕方がない。
 昭和十六年の六月一日であったと思う。もう当時は酒が簡単に手にはいらなくて、私が途中にガランドウをわずらわして一升運んでもらった。この一升がきてから後は、論戦の渦まき起り、とうとう三好達治が、バカア、お前なんかに詩が分るかア、と云って、ポロポロ泣きだして怒ってしまった。萩原朔太郎について小林秀雄と大戦乱を起したのである。
 終戦の年の五月の頃であったが、私は焼野原をテクテク歩いて、羽田の飛行場の海へ、潮干狩りに行った。四面焼け野原となって後は、配給も殆どなく、カボチャや豆などを食わされ、さすがに悲鳴をあげたという程のこともないが、半分は退屈だったから、潮干狩りとシャレてみたのである。生れてはじめての潮干狩りであった。
 羽田の飛行場は、焼けた飛行機の残骸や、吹きとばされて翼の折れた飛行機などが四散していた。
 膝までの海を安心して歩いていると、いきなりバクダンの穴へ落ちて、クビまでつかり、ビショぬれになってしまった。それでも二十人ぐらい貝を拾っている人々がいた。海一面が貝のようなもので、いくらでも貝のとれる状態であったが、今はもう、そんなに貝はいないだろう。
 私はシビのあたりまで歩いて行って、ゆっくり大物を物色した。二度空襲警報がでた。心細いものである。二十人ほどの人間がみんなそれぞれ慌てゝいる様子が見えるが、私はシビによりそって、シビの材木のフリをするような方法を用いた。アメリカの飛行機に水遁の術がきくかどうか心細い思いであったが、慾念逞しく、尚も海中にふみとどまってハマグリの大物を物色しつゞけたのである。釣り師の心境というものを若干会得したのであった。
 大きな袋をかついで帰路につき、疲れ果て、巡査にバスはないかときくと、
「今の日本には、足よりも確かな交通機関はないよ、君」
 と、肩をポンとたゝかれたのである。



底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
   1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文学界 第三巻第六号」
   1949(昭和24)年8月1日発行
初出:「文学界 第三巻第六号」
   1949(昭和24)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネッ
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