ぬとか、そこから何らの関係の発展、淪落の身を以ての探究といふものが行はれてこない。
「問はず語り」においても後篇において老画家は妻君の連れ子の雪江と関係を結ぶが、その淫蕩に諦める如くたゞ田舎へ去り、雪江の情夫の音楽家また呆れて逃避して老画家と田舎で落合ふなどと馬鹿げたことばかり、人倫の発展を身を以て究めやうとする根本的な作家精神が欠如してゐる。だから松子との関係が辰子に知られたところで、荷風の場合は実際は大したことにはならないので、諦めて去るか、死ぬか、それだけのこと、分りきつてはゐる。
私が荷風を根柢的に通俗と断じ文学者に非ずと言をなしたのはこの意味であつて、筆を執る彼の態度の根本に「如何に生くべきか」が欠けてをり、媚態を画くに当つて人の子の宿命に身を以て嘆くことも身を以て溺れることも身を以てより良く生きんとすることもない。単なる戯作の筆と通俗な諦観のみではないか。
稀れに不貞に対する憎しみが現れゝば、それは「つゆのあとさき」の清岡進が手先に言ひふくめて女の袂を切らせたり女の押入れへ猫を投げこんだり、そんな厭がらせだけのこと、又、人間関係の葛藤めくものが多少とも現はれゝば「腕くら
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