野浩二氏が嘉村夫人に就いて何かの雑誌へ感想を書いた。宇野氏は嘉村氏の不遇の頃から極力|推輓《すいばん》してゐたもので、嘉村氏との私交も普通のものではなかつたのだらう。宇野氏は嘉村夫人の亡夫への思慕の一様ならぬ切実さに打たれた感慨を述べたあとで、その文章のいちばん終りに、だがいくら貞女だつて、良人が死んで暫く立てば、またどうなるか分りやしないといふ意味のことを甚ださりげなく匂はしてゐたのを、僕は呆気にとられて読んだことを忘れない。ひどく打たれ、感心したのである。怖るべき小説家魂だと思つた。
このやうな怖るべき小説家魂をもつてきて『結婚の生態』をこの鏡の前へ置いたなら、この小説の人生観と生活との破綻のなさが実はこの小説の弱点であることが納得されよう。
この破綻のなさは一面たしかに強味となつてもゐるのであるが、いはゞそれはこの小説がひとつの惚気《のろけ》であり目下のところ、惚気られてもちよつと文句が言へないほど外面的には仰せの通りだ、といふやうな意味である。
石川氏はデカダンスには意識的にふれようとせず、逆へ逆へと急ぎすぎた感がある。デカダンスの逆なものを急速に欲しすぎて、あまり簡単に家庭の甘さを承認しすぎてゐるやうである。デカダンスの外貌は或ひは悪徳であるかも知れぬが、デカダンスに走らざるを得ぬ精神のひとつには実は最高のモラリストの精神があるのだ。石川氏の拒否するデカダンスは不幸にして、高いモラリストの精神が住むそれではなかつた。この小説の安易さは、そこにかゝつてゐる。
然しながら、この小説は甚だしく観念的で、理窟つぽいにも拘らず、人を読ませる力をそなへてゐるのである。思ふにそれは、作者自らの「生きてゐる生活」に根ざした文章であるためにほかならないと考へる。
このことを昨日批評した農民文学に比べると『部落史』や『田舎』のひとつの弱点が明らかとなるであらう。即ち『部落史』や『田舎』には、作者の生活がないのである。しかも極力農村の生活を描きながら。
なるほど、これは前記二つの農民文学の欠点であつたとはいへ、作者の生活がないこと、それは必ずしも文学の価値を減じはしない。真に傑れた小説は、作者の生活と没交渉でも成立しうる。そのことを、例をひいて、明日の批評で述べたいと思ふ。
(三)[#「(三)」は縦中横] 完璧の作品『草筏』
外村繁氏の『草筏《くさいかだ》』はすでに新人といふ区別をつけて論ずべき作品ではない。最近の長篇小説といへば、一列一体に書きなぐり気分の多い濫作物の横行の中で、この作品は完璧の相を示して光り輝いてゐる。
この小説は作者の自伝風のもので、作者自身らしい晋といふ少年を通じて、近江中の庄の豪家藤村家の人々が描かれてゐる。作中人物いづれも活写されざる者がない。
然し乍ら、この作品の唯一の弱点は少年の世界といふものは、これほど完璧に描破されても、苦難にみちた大人達の心には、それほど深く喰ひこむ力がないといふ一事であらう。
それゆえ、この小説の作中人物は、晋の印象を通じてのみ語られてゐる限り、人に迫る深さを持つことができないのだが、いつたん晋の世界を出外れた部分へくるとはじめて陸離たる光彩を放つ。即ち長男の重責と才能との不均衡のために、逃避難とひねくれた精神生活を植えつけられた藤村家の当主治右衛門、好人物で好色な二男辰二郎、傲岸不屈な末弟真吾、この兄弟の性格とその交渉は藤村商店といふ大機構をめぐつて特色深い人生図を展開する。
青春を謳ふ代りに憎み、結婚初夜に、身体は買つたが精神上の結婚はせんと堂々花嫁に宣言する真吾の性格は、一見甚だ観念的で異国風なものに見えるが、治右衛門、辰二郎と並べて見ると、その外部的な表出はとにかくとして、日本の豪家の一族には、却つて甚だ有り易い型ではないかと思はれる。さうして、これら三兄弟の性格の関係自体がまた甚だしく日本的だ。我々が常に見馴れてゐるために、すぐれた作家の筆によつて描かれなければ、気付かず見逃し易いほど普通的な型なのである。すぐれた作家は常にかうして我々が見馴れすぎて不感症の世界から新鮮なものをもたらしてくれる。
然し乍ら、この小説は完璧の相をもち、読むあひだは作中に人をひきこむ力を具へてをりながら、さて、読後ふりかへつてみる時には、まとまつて受ける感銘が稀薄なのだ。
思ふにそれは、この小説に根柢的な分裂があるからだと思ふ。外的には完璧で破綻を示すところはないが、根柢に於て分裂があるのだ。それは、又、先にも述べたこの作品の唯一の弱点、所詮少年の世界は、大人の苦難に食ひこむ文学になり得ないといふあのこととも関聯してゐる。即ち、この小説の傑出した部分はいづれも晋少年と交渉のない場面のみなのであるが、作者の置く重心はむしろ常に晋にある。その分裂があるために、この
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