体が孕んでゐる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であつても、それを否定し揶揄するのではなく、そのやうな不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑ひといふ豪華な魔術によつて、有耶無耶のうちにそつくり昇天させようといふのである。合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにして、笑ひとばして了はうといふわけである。
 だから道化の本来は合理精神の休息だ。そこまでは合理の法でどうにか捌きがついてきた。ここから先は、もう、どうにもならぬ。――といふ、やうやつと持ちこたへてきた合理精神の歯をくひしばつた渋面が、笑ひの国では、突然赤褌ひとつになつて裸踊りをしてゐるやうなものである。それゆえ、笑ひの高さ深さとは、笑ひの直前まで、合理精神が不合理を合理化しようとしてどこまで努力してきたか、さうして、到頭、どの点で兜を脱いで投げ出してしまつたかといふ程度による。
 だから道化は戦ひ敗れた合理精神が、完全に不合理を肯定したときである。即ち、合理精神の悪戦苦闘を経験したことのない超人と、合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑ひに鼻もひつかけずに済まされるのだ。道化はいつもその一歩手前のところまでは笑つてゐない。そこまでは合理の国で悪戦苦闘してゐたのである。突然ほうりだしたのだ。もしやくしやして、原料のまま、不合理を突きだしたのである。
 道化は昨日は笑つてゐない。さうして、明日は笑つてゐない。一秒さきも一秒あとも、もう笑つてゐないが、道化芝居のあひだだけは、笑ひのほかには何物もない。涙もないし、揶揄もないし、凄味などといふものもない。裏に物を企んでゐる大それた魂胆は微塵もないのだ。ひそかに裏に諷してゐるしみつたれた精神もない。だから道化は純粋な休みの時間だ。昨日まで営々と貯めこんだ百万円を、突然バラまいてしまふ時である。惜げもなく底をはたく時である。
 道化は浪費であるけれども、一秒さきまで営々と貯めこんできた努力のあとであることを忘れてはならない。甚だしく勤勉な貯金家が、エイとばかり矢庭に金庫を蹴とばして、札束をポケットといふポケットへねぢこみ、さて、血走つた眼付をして街へ飛びだしたかと思ふと、疾風のやうにみんな使つて、元も子もなくしてしまつたのである。
 道化の国では、ビールよし、
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング