行詩三行詩はあるが、二行詩専門の詩人などゝいふ変り者は先づない。変り者はどこにもゐるから、二行詩しか作らないといふ変り者が現れても不思議ぢやないが、自分の詩情は二行詩の形式が発想し易いからといふだけのことで、二行詩は二行の詩であるといふことで他の形式の詩と変つているだけ、そのほかに特別のものゝ在る筈はない。
俳句は十七文字の詩、短歌は三十一文字の詩、それ以外に何があるのか。
日本は古来、すぐ形式、型といふものを固定化して、型の中で空虚な遊びを弄ぶ。
然し流祖は決してそんな窮屈なことを考へてをらず、芭蕉は十七文字の詩、啄木は三十一文字三行の詩、たゞ本来の詩人で、自分には十七字や三十一字の詩形が発想し易く構成し易いからといふだけの謙遜な、自由なものであつたにすぎない。
けれども一般の俳人とか歌人となるとさうぢやなくて、十七字や三十一字の型を知るだけで詩を知らない、本来の詩魂をもたない。
俳句も短歌も芸術の一形式にきまつてゐるけれども、先づ殆ど全部にちかい俳人や歌人の先生方が、俳人や歌人であるが、詩人ではない。つまり、芸術家ではないだけのことなのである。
然し又、自由詩をつくる人
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