々は自由詩だけが本当の詩で、韻のある詩や、十七字、三十一字の詩の形式はニセモノの詩であるやうに考へがちだけれども、人間世界に本当の自由などの在る筈はないので、あらゆる自由を許されてみると、人間本来の不自由さに気づくべきもの、だから自由詩、散文詩が自由のつもりでも、実は自分の発想法とか構成法とか、自由の名に於て、自分流の限定、限界、なれあひ、があることを忘れてはならない。
だからバラッドやソネットをつくつてみようとか、俳句や短歌もつくつてみたいとか、時には与へられた限定の中で情意をつくす、そのことに不埒のあるべき筈はない。
十七文字の限定でも、時間空間の限定された舞台を相手の芝居でも、極端に云へば文字にしかよらない散文、小説でも、限定といふことに変りはないかも知れないではないか。
芥川龍之介も俳句をつくつてよろしい。三好達治も短歌も俳句もつくつてゐる。散文詩もつくつてゐる。ボードレエルも韻のある詩も散文詩もつくつてゐる。問題はたゞ詩魂、詩の本質を解すればよろしい。
主知派だの抒情派だのと窮屈なことは言ふに及ばぬ。私小説もフィクションも、何でもいゝではないか。私は私小説しか書かない私小説作家だの、私は抒情を排す主知的詩人だのと、人間はそんな狭いものではなく、知性感性、私情に就ても語りたければ物語も嘘もつきたい、人間同様、芸術は元々量見の狭いものではない。何々主義などゝいふものによつて限定さるべき性質のものではないのである。
俳句も短歌も私小説も芸術の一形式なのである。たゞ、俳句の極意書や短歌の奥儀秘伝書に通じてゐるが、詩の本質を解さず、本当の詩魂をもたない俳人歌人の名人達人諸先生が、俳人であり歌人であつても、詩人でない、芸術家でないといふだけの話なのである。
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「詩学 第四号」岩波書店
1947(昭和22)年12月30日発行
初出:「詩学 第四号」岩波書店
1947(昭和22)年12月30日発行
入力:tatsuki
校正:oterudon
2007年7月15日作成
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