の奔放な力将棋には、近代を納得させる合理性が欠けてゐるのだ。それ故、事実に於て、その内容(力量)も貧困であつたと私は思ふ。第一手に端歩をつくなどといふのは馬鹿げたことだ。
 伝統の否定といふものは、実際の内容の優位によつて成立つものだから、コケオドシだけでは意味をなさない。
 然し、そのこととは別に私が面白いと思ふのは、八段ともあらう達人が、端歩をついたといふことの衒気である。
 フランスの文学者など、ずいぶん衒気が横溢してをり、見世物みたいな服装で社交界に乗りこむバルザック先生、屋根裏のボードレール先生でも、シャツだけは毎日垢のつかない純白なものを着るのをひけらかしてゐたといふが、これも一つの衒気であり、現実の低さから魂の位を高める魔術の一つであつたのだらう。
 藤田嗣治はオカッパ頭で先づ人目を惹くことによつてパリ人士の注目をあつめる方策を用ひたといふが、その魂胆によつて芸術が毒されるものでない限りは、かゝる魂胆は軽蔑さるべき理由はない。人間の現身《うつしみ》などはタカの知れたものだ。深刻ぶらうと、茶化さうと、芸術家は芸術自体だけが問題ではないか。誰だつて、無名よりは有名がよからう、
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