、そのための発散の効果によつてのことであつて、文学本来のイノチをそれによつてむしろ限定し低くするなら意味がない。坂田八段の端歩は、まさしくハッタリによつて芸術自体を限定し低めてしまつたバカ/\しい例であり、大阪の長所はこゝに於て逆転し、最大の悪さとなつてゐる。それは大阪といふものの文化的自覚が、真理の場に於て自立したものではなく、東京との対立に於て自立自覚せられてゐるからで、そこに大阪の自覚のぬけがたい二流性が存してゐる。かゝる対立によつて自立せられるものは、対立の対象が一流であれ何流であれ、本人自体は亜流の低さから、まぬかれることはできない。
 今日ジャーナリズムが大阪の反逆などといふのは馬鹿げてゐる。反逆は大阪の性格、大阪の伝統の如きものによつて、為さるべきものではない。文学は文学本来の立場によつてのみ反逆せられねばならぬ。
 織田は悲しい男であつた。彼はあまりにも、ふるさと、大阪を意識しすぎたのである。ありあまる才能を持ちながら、大阪に限定されてしまつた。彼は坂田八段の端歩を再現してゐるのである。
 だが我々は織田から学ぶべき大きなものが残されてゐる。それは彼の戯作者根性といふことだ。読者を面白がらせようといふこの徹底した根性は、日本文学にこれほど重大な暗示であつたものは近頃例がないのだが、壇上のスポットライトの織田作は神聖なる俗物ばらから嘲笑せられるばかりであつた。
 まさしく日本文学にとつては、大阪の商人気質、実質主義のオッチョコチョイが必要なのだ。文学本来の本質たる厳たる思想性の自覚と同時に、徹底的にオッチョコチョイな戯作者根性が必要なのだ。かゝる戯作者根性が日本文学に許容せられなかつた最大の理由が、思想性の稀薄自体にあり、思想に対する自覚自信の欠如、即ちその無思想性によつて、戯作者の許容を拒否せざるを得なかつた。鼻唄をうたひながら、文学を書いてはいけなく、シカメッ面をしてシカメッ面をしか書くことができなかつたのである。
 我々が日常諸方に人々から同じことをやられてウンザリするのは、「私の身の上話は小説になりませんか」「私の身の上話をきいて下さい」といふことだ。さういふ身の上話は然し陳腐で、ありふれてゐて、きゝばえのある話などは、先づ、ないものだ。然し、それを笑ふわけには行かぬ。我々が知らねばならぬことは、身の上話のつまらなさではなく、身の上話を語りたがる人の心の切なさであり、あらゆる人がその人なりに生きてゐる各々の切なさと、その切なさが我々の読者となつたとき、我々の小説の中に彼等がその各々の影を追ふことの素朴なつながりに就てである。純文学の純の字はさういふ素朴な魂を拒否せよといふ意味ではない。たゞ、如何に生くべきか、思想といふものが存してゐる、その意味であり、それに並存して、なるべく多くの魂につながりたいといふ戯作者がゐる。あらゆる人間の各々のいのちに対する敬愛と尊重といたはりは戯作者根性の根柢であり、小説の面白さを狙ふこと自体、作者の大いなる人間愛、思想の深さを意味するものでもあることを知らねばならぬ。
 孤高の文学といふ。然し、真実の孤高の文学ほど万人を愛し万人の愛を求め愛に飢ゑてゐるものはないのだ。スタンダールは、余の小説は五十年後に理解せられるであらうと。たしかに彼はさう書いてゐる。然し、それだけが彼の心ではない。彼はたゞちよつと口惜しまぎれに、シャレてみただけだ。五十年後の万人に理解せられるであらう、と。五十年後でなくたつて、構はないにきまつてゐるのだ。
 日本文学は貧困すぎる。小説家はロマンを書くことを考へるべきものだ。多くの人物、その関係、その関係をひろげて行く複雑な筋、さういふ大きな構成の中におのづと自己を見出し、思想の全部を語るべきものだ。
 小説は、たかゞ商品ではないか。そして、商品に徹した魂のみが、又、小説は商品ではないと言ひきることもできるのである。



底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「改造 第二八巻第四号」
   1947(昭和22)年4月1日発行
初出:「改造 第二八巻第四号」
   1947(昭和22)年4月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
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