をひいた。
「くれるものは、くれなきゃ、いけないよ。だましちゃ、ずるいや。戦争から、こっち、なんだか、いつも、だまされているみたいじゃないか。だから、人間は退歩しなきゃ、いけねえよ。エッヘッヘ」
 また、パンパンと張り手がなる。その時、ちょうど、庖丁のある場所へ来ていたのである。馬吉の顔が黒ずんでニヤリとした。ちょッと身がこごんで立ちあがったゞけのようであった。出刃庖丁が一平の腹に刺しこまれていたのである。
 一平がのけぞると、馬吉は落ちついて、ヨイショ、と言った。そして出刃庖丁を両手でグッと押した。
 人々が音をききつけて駈けつけた時、馬吉は一平のクビへ出刃をさしこんで、いたのである。その時は、もう、ゆがんだ顔ではなかった。オモチャと遊んでいるようでしかなかった。
 ドッと駈けつけた人々を見て、彼はニヤリと笑った。
「退歩しなきゃ、いけないです」
 彼は演説するように、張りのある声で、こう叫ぶと、ゴロンと後へころがった。自殺でもしたのかと思うと、そうではなくて、彼は満腹したせいか、老猫のような鼻息をたてて、昏睡していたのである。
 馬吉は分裂病という判定をうけたけれども、本人は退歩主
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