やがれ」
 パンパンと威勢よく張りつけた。これも芝居にある型である。然し、馬吉はパンパンと張り手をくらッて、気がついた。
「アッ、そうだ。オレは退職手当を貰わなきゃ、いけないよ。誰だって、クビをきられる時は、退職手当というものがあらアな。きまってるよ。エッヘッヘ。よせよ。ごまかしちゃア、いけないよ」
「バカも休み休みいいやがれ。退職手当というものはレッキとした正社員の貰うことだ。テメエなんざ、臨時雇いか見習いみたいなもんじゃないか。それに、千円の前借りがあるじゃないか。それを見逃してやるだけでも、有り難いと思いやがれ」
 また、パンパンとくらわす。一平も次第に本気に怒ってきた。馬吉は蒼ざめてギラギラした笑いを浮かべたが、それが、だんだん歪んできた。
「チェッ。だましちゃ、いけないよ。オレだって、今は真剣なんだからな。さっきまで、そこんとこへ気がつかなかったんだ。それは、たしかに、退職手当というものはくれなきゃ、いけないよ」
 また、パンパンと張り手がなった。張り手に力がこもったので、ぶたれると、馬吉の首がグラ/\ゆれる。彼の目が、ゆれながら、ギラ/\もえた。彼は壁にそって、グルグルと身をひいた。
「くれるものは、くれなきゃ、いけないよ。だましちゃ、ずるいや。戦争から、こっち、なんだか、いつも、だまされているみたいじゃないか。だから、人間は退歩しなきゃ、いけねえよ。エッヘッヘ」
 また、パンパンと張り手がなる。その時、ちょうど、庖丁のある場所へ来ていたのである。馬吉の顔が黒ずんでニヤリとした。ちょッと身がこごんで立ちあがったゞけのようであった。出刃庖丁が一平の腹に刺しこまれていたのである。
 一平がのけぞると、馬吉は落ちついて、ヨイショ、と言った。そして出刃庖丁を両手でグッと押した。
 人々が音をききつけて駈けつけた時、馬吉は一平のクビへ出刃をさしこんで、いたのである。その時は、もう、ゆがんだ顔ではなかった。オモチャと遊んでいるようでしかなかった。
 ドッと駈けつけた人々を見て、彼はニヤリと笑った。
「退歩しなきゃ、いけないです」
 彼は演説するように、張りのある声で、こう叫ぶと、ゴロンと後へころがった。自殺でもしたのかと思うと、そうではなくて、彼は満腹したせいか、老猫のような鼻息をたてて、昏睡していたのである。
 馬吉は分裂病という判定をうけたけれども、本人は退歩主
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