の魂の苦悩を笑殺することは、大いなるマチガイである。
 文士も、やっぱり、芸人だ。職人である。専門家である。職業の性質上、目に一丁字もない文士はいないが、一丁字もないと同様、非常識であっても、芸道は、元来非常識なものなのである。
 一般の方々にとって、戦争は非常時である。ところが、芸道に於ては、常時に於てその魂は闘い、戦争と共にするものである。
 他人や批評家の評価の如きは問題ではない。争いは、もっと深い作家その人の一人の胸の中にある。その魂は嵐自体にほかならない。疑り、絶望し、再起し、決意し、衰微し、奔流する嵐自体が魂である。
 然し、問題とするに当らぬという他人の批評の如きものも、決して一般世間の常態ではないのである。
 力士は棋士はイノチをかけて勝負をする。それは世間の人々には遊びの対象であり、勝つ者はカッサイされ、負けた者は蔑まれる。
 ある魂にとってその必死の場になされたる事柄が、一般世間では遊びの俗な魂によって評価され、蔑まれている。
 文士の仕事は、批評家の身すぎ世すぎの俗な魂によって、バナナ売りのバナナの如くに、セリ声面白く、五十銭、三十銭、上級、中級と評価される。
 然し、そんなことに一々腹を立てていられない。芸道は、自らのもっと絶対の声によって、裁かれ、苦悩しているものだ。
 常時に戦争である芸道の人々が、一般世間の規矩と自ら別な世界にあることは、理解していたゞかねばならぬ。いわば、常時に於て、特攻隊の如くに生きつつあるものである。常時に於て、仕事には、魂とイノチが賭けられている。然し、好きこのんでの芸道であるから、指名された特攻隊の如く悲痛な面相ではなく、我々は平チャラに事もない顔をしているだけである。
 太宰が一夜に二千円のカストリをのみ、そのくせ、家の雨漏りも直さなかったという。バカモノ、変質者、諸君がそう思われるなら、その通り、元々、バカモノでなければ、芸道で大成はできない。芸道で大成するとは、バカモノになることでもある。
 太宰の死は情死であるか。腰をヒモで結びあい、サッちゃんの手が太宰のクビに死後もかたく巻きついていたというから、半七も銭形平次も、これは情死と判定するにきまっている。
 然し、こんな筋の通らない情死はない。太宰はスタコラサッちゃんに惚れているようには見えなかったし、惚れているよりも、軽蔑しているようにすら、見えた。サッ
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング